沿革・逸話


教室の沿革

 倫理学講座(教授1、助教授1)と倫理思想史講座(教授1、助教授1)の二講座からなる。
 教室(二講座)に助手が1名あったが、一昨年、学部改革のために供出。かわりに、現在、事務補佐員1名。
 (現在の教室の教職員や大学院生や学部学生については、それぞれのページをご覧ください。)
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 四半世紀まえまでのことについては、『広島大学二十五年史 部局史』(昭和52年3月 広島大学刊行)の「第一編文学部 第二章教室史 第四節倫理学教室」にまとめてあります。
まずは、それをここにすこし短くして再録しておきます。
 (やっぱりやめた、もっと面白い教室の逸話にいきたいというひとは、ここをクリックしてください)
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 当倫理学教室は、戦前の「広島文理科大学」の伝統を受けついでおり、文理大当時は、三講座だったが、昭和24年(1949年)5月、新制大学発足にあたって、「東洋倫理学講座」を中国哲学教室へ移したため、二講座になった。
 当初の講座名は、「ドイツ倫理学」と「英国倫理学」となっていた。発足当時の教官は、白井成充教授、森滝一郎教授、永野羊之輔助教授、小倉貞秀講師だった。
 白井は、主として、日本倫理思想中心の講義を担当、演習には、日本浄土教、ドイツ倫理思想関係のテキストを使用した。森滝は、倫理学概説を担当し、英国倫理思想の演習を行い、永野は、英国のギリシア哲学研究に関する特殊講義と演習をし、小倉は、ドイツ倫理学の講義・演習をもった。
 昭和28年(1953年)3月、白井が停年退官。同年4月、山本幹夫教授を迎える。山本は、日本倫理思想と西洋倫理思想通史の講義を担当する。29年4月には、小倉が助教授に昇進。
 昭和40年3月、原水爆禁止の運動に力をそそいだ森滝(昨年93才で亡くなるまで、以後も一貫して原水爆禁止に尽力)が停年退官し、同年4月、河野真助手が助教授に昇進。後任助手には、新本豊三が採用された。同40年8月、永野が教授に昇進したが、同年11月他界。翌41年3月、山本幹夫が停年退官(退官後は僧名を山本空外と称し宗教界で活躍.)。
 昭和41年(1966年)4月、講座名を、「ドイツ倫理学」と「英国倫理学」から、「倫理学」と「倫理思想史」に改称する。
 42年4月、新本が講師に昇進。43年10月には、小倉が「倫理学講座」教授に昇進。
 この当時、小倉は、倫理学概論と、近世・現代倫理思想の特殊講義と演習を担当し、大学院では、現象学的価値倫理学をテーマとした。河野は、西洋倫理思想通史とドイツ観念論の特殊講義・演習を担当し、大学院では、シェリング後期の倫理学的研究をテーマとした。新本は、日本倫理思想史の古典をもって、特殊講義・演習をおこなった。
 昭和45年(1970年)4月、新本が助教授に昇進、47年4月、弘睦夫が「倫理思想史講座」助教授として採用された。弘は、英米の倫理思想、分析哲学・科学哲学を専門とした。49年6月には、河野が「倫理思想史講座」教授に昇進した。
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 以上のようにではつづられています。それ以後について、同様のかたちで以下に略述しておきます。
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 昭和62年(1987年)3月、小倉が停年退官。同年4月、新本が「倫理学講座」の教授に昇進。
 昭和63年3月、河野(現在、安田女子大学学長)が停年退官。平成元年(1989年)年4月、越智貢助手が「倫理学講座」の講師に昇進。
 平成2年(1990年)4月、弘が「倫理思想史講座」教授に昇進。
 平成3年4月、越智が助教授に昇進。
 平成4年4月、近藤良樹が「倫理思想史講座」の助教授として採用される。
 平成6年(1994年)3月、発足以来の広島市中区東千田のキャンパスから、東広島(西条)に文学部が移転する。
 平成7年3月、弘が停年1年前にして転出(東亜大学大学院教授として)。同4月、近藤が教授に昇進。
 平成8年4月、松井富美男が「倫理思想史講座」の助教授として採用される。
 平成9年(1997年)3月、新本豊三が停年退官(福山平成大学へ)。同4月、越智が、教授に昇進。
 平成10年、大講座化(西洋哲学・インド哲学・倫理学がひとつになり、「応用倫理・哲学講座」となる)にともない、倫理学教室を形式的には解体。実質的には小講座として存続。
 平成12年(2000年)4月、岡野治子(実践女子大より)が教授として採用される。
 平成16年(2004年)3月、岡野停年退官(4月より清泉女子大学へ)。
 平成16年4月、松井が教授に昇進。
 平成16年4月、広島大学が国立大学法人となる。
 平成18年4月、衛藤吉則が応用倫理・哲学講座(倫理学分野)助教授として採用される。
 平成20年3月、近藤停年退職(4月より福山平成大学へ)。
 平成20年4月、講座名を「応用哲学・古典学」に改称。
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教室の逸話

教室の杓子定規な「沿革」をあえて知りたいひとは、ここをクリックして下さい
 そんなものには興味はないが、教室の逸話ぐらいなら見てやろうというひとは、このままつづけて読んでいって下さい。
巻その1. ずっと昔のひとの語りぐさ

西は、西だが、東は、西田?

 戦前のこと、西晋一郎先生は、「西倫理学」を展開されて、当教室をささえられていた。いまでも、「西倫理学」は、わが国の哲学・倫理学の研究対象の一つになっている。その当時、京都の西田幾多郎さんが、集中講義に広島文理大に来られたとき、学生が、そのサインをもらってよろこんでいるのを見て、西先生のお弟子さんたちは、不快感をかくしきれず、「東は、西田だが、西は、西だ。」といきまいておられたという。

すきのない西晋一郎先生

 西先生は戦前の国体思想を推進された方であり、その著書の数々は岩波書店から出版され、今でも本屋さんで時々見かけることがある。西先生から感化されたお弟子さんの一人が先生の過去をあばいてやろうと奮闘した結果、小学校時代の成績表を見ることができたが、なんと、オール優であった。そのお弟子さんは「さすがに西先生だ、隙がない」と言って大層くやしがったそうだ。

西先生と山本先生

 戦前の話、山本幹夫先生がドイツへ留学されていたときのこと、その留学先に西先生が訪ねて来られ、その夜、山本先生に「お酒が飲みたい」と言われた。そのとき山本先生は留学中の身でもあり、またプロティノス研究を深めたい一心でもあったので、ご高名な西先生にしては随分不謹慎なことを言われると思われたという。
 だが後日、山本先生もお酒の味を覚えられると昔の西先生を思い出しながら、「あのときは先生の気持ちが、よう分からんかったが、お酒もなかなかいいものだ。何事も自分で経験してみんと分からんものじゃ」と言われたそうだ。  

白井先生の拝礼

 白井先生は言行一致を実践された方で、そのお姿そのものが「倫理学」で、講義を始められる前には必ず、いにしえの諸聖人にむかって拝礼されたという。

白井先生のドイツ語

 白井先生がドイツ語をゆっくりとしゃべられるので、現地のある人が「どうしてこんなにスローなのか」と山本先生に質問された。そこで山本先生は「いや、白井先生はドイツ語だけでなく日本語でもそうですよ」とお答えになったそうだ。

白井先生と小倉先生

 白井先生は、無口で穏和であったという。白井先生と小倉先生の共訳による『カントの道徳哲学』が岩波文庫から出版されているが、その頃の話。小倉先生は、白井先生から岩波書店に紹介してもらうために上京された。待ち合わせ場所は「お茶の水駅」であったという。ところが小倉先生は、駅の東口と西口とをまちがえ、それに気づいてあわてて約束の場にかけつけた時、白井先生は、ただ一言「田舎者は困りますな」と言われたそうだ。日頃、よけいなことを一切おっしゃらなかった白井先生の唯一のお言葉であった。    註

シュヴアィツアーと森滝先生

 先生が、生命の無差別的愛に徹底していたシュヴアィツアーに会われたとき、アフリカの蚊が氏をさしたのを、しっかりと見ておられた。たたきつぶすことを期待されていたのだが、なんと、じっとがまんの子であったという。

森滝先生の平和運動

 森滝先生は、西先生の娘婿で、戦前は国体学を講じておられた。しかし、自ら被爆体験されたのを機に、戦後は平和運動に尽力された。その奮闘ぶりは大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』でも紹介されている。周知のように先生は、核兵器の全面廃止を訴えて平和公園でよく座り込みをされた。

森滝先生の義眼

 先生は、原爆投下のときにガラスの破片が突き刺さって片目を失明された。そのために一方の目は義眼であった。日本倫理学会で「平和」について講演されているときに、先生は、突然その義眼を取り外して皆にお示しになったことがある。「目は口以上にものを言う」であった。

永野先生と奥様

 永野先生ご夫妻は共に九大のご出身で、しかも先生はその倫理学研究室の、奥様は(カント学者で)哲学研究室の助手をされていた。そんなお二人であったから、家庭にあっても哲学精神はいかんなく発揮された。学生が先生宅にお邪魔したときのこと、先生が奥様に「お茶を出してくれないだろうか」と言われたら、「あなたがなされば」と奥様はおっしゃったという。また別のある日、同僚の先生が、ご自宅に伺ったら、先生は、玄関口で、「ちょっとそとにいきましようか」と言われて、そのまま外の提灯屋に向かわれたそうだ。

永野先生の庶民性

 永野先生は、なりふりを気にされない方であった。新本先生がまだ大学院生の頃、先生は、囲碁相手を求めて半ズボン姿でしばしば新本先生の下宿先にやって来られた。先生が学生のところに遊びに行くことは当時としては異例なことであったが、先生はそれを一向に意にかいされなかった。
 永野先生は、のちに舌ガンになられ、手術された。一度は復帰されたが、まもなく再発。よほどしんどかったのであろう、しばしば研究室のソファーで横になって休んでおられた。しかし、そのお姿も、そんなに長く見ることはできなかった。 

山本先生と原爆

 広島に原爆が投下されたとき、山本先生は、たまたま海田におられた。その日、先生は、広島駅で教え子と待ち合わせをしていたが、ちょっとしたハプニングがあって列車が遅れてしまい、そのために命拾いをすることになった。しかし、約束の時間にたがえずに広島駅で待っていた教え子の方は、原爆で亡くなった。
 まもなく終戦。先生は、出家された。京都の知恩院にはいられ、僧侶となられたのであった。その後、ふたたび、広大にかえられたわけだが、先生は、いつも、「わしゃ、一遍死んだという気があるからの」と言われていた。現在94歳、浄土宗の僧侶としてご健在である。

山本先生の茶会

 山本先生は、学期末には、かならず院生たちを自宅に招き、抹茶を出し、夏は、日本料理、冬は、かきの土手焼き(または、すき焼き) をごちそうして下さった。休みまえになると、院生は、それを楽しみにして、「今週はお招きの挨拶があるはずだ」「いや来週だろう」などとうわさし、心待ちにしたという。そのおかげで抹茶を立てる作法をマスターした者は、すくないが、飲む方は、上手になったとのこと。

山本先生からの言い伝え

 山本先生は、一者(神)からの流出を説くプロティノスの演習で<wenn anders>という箇所を発見すると、「これは苟(いやしく)も〜ばと訳すのじゃ」と学生に諭された。そのとき新本先生はもちろん学生であったが、「これは適訳だ」と思われたそうだ。後年、新本先生ご自身がハイデガーの演習でこの語に遭遇したとき、「僕の先生から教えてもらったんじゃが、これは苟も〜ばと訳すとぴったりする」と、やはり当時学生であった松井先生に伝授された。そのとき松井先生は「苟も〜ば」がどういう意味かはよく分からなかったが、とにかく大切な教えにちがいないと信じて、コーエンの演習でこの言葉に出くわして「これは倫理学研究室の伝統で、苟も〜ばと訳すらしい」と、自信なげに院生たちに伝授するのであった。かれこれ40年以上にもなるというのに「一者」からの「流出」はまだ続いているようだ。
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巻その2. すこし昔の人のエピソード

小倉先生の演習(1)

 小倉先生の演習は厳しいことで有名で、初回の授業にラテン語文をもってこられ「これが読めない者は直ちに去れ!」といわんばかりに学生を圧倒されるのであった。そのため学生はいやいやながら語学の勉強を始めるか、それとも立ち去るかいずれかであったと聞く。最初は一人か二人の欠席者がそのうちに三人、四人…と増えていき、最後にはインディアンが一人もいなくなることもあったそうだ。

小倉先生の演習(2)

 他大学から倫理学研究室に入学したばかりのある院生がカントの第二批判の翻訳を持参してきていた。そして何かの折に翻訳をもとに話をしていたら、いきなり小倉先生が「大学院では翻訳を使うな!」と言われた。その後、院生は真面目にドイツ語に取り組むあまり、すっかり「陰性」なっていった。

小倉先生の演習(3)

 小倉先生の翻訳にシェーラーの『永遠なるもの』(白水社)があるが、この訳を手がけられた頃から俗語の訳にうるさくなられた。その一例が<und doch>である。ドイツ語を読んでいてこの語に遭遇すると、必ずストップされて「それどころかと訳すのだ」と耳にたこのできるほど諭された。そのため、ついには院生の一人が広大生賛歌の替え歌にまで採用し、「ああ、それなのに、それなのに、ちょっと…」というくだりになると、「ウントドッホ、ウントドッホ」と囃したてる始末。とにかく「ドイツ語の一字一句をおろそかにするな!」が先生の口癖であった。 

学会での小倉先生

 先生は学会でよく質問をされた。それが使命だと感じておられたようだ。若い人の発表が終わると、ぐるっと周りを見渡してだれも手を挙げていないのを確認すると、おもむろに「小倉だが」と言って質問を開始された。相手の返答が意をえない場合には、先生は次第にいらいらされ、そのいらいらが極度に達すると、「その言葉は本に何回でてくるか!」と詰問された。発表者はこの質問に答えられるはずもなく呆然と立ちつくしているのみだが、その降参姿勢を見届けられると、先生は「分からないようだから教えてあげよう。××回だよ」と言われた。その光景は質問というよりもほとんど「いじめ」であった。

小倉先生と「義務」チョコ

 わが倫理学教室には昔から女性軍が何名かは在籍しており、ある時期、女子学生の間で義理チョコが流行った。そんなある年、小倉先生もチョコレートをもらわれたが、それは全く前例のないことであった。
 その年度、先生はカントの講義で「義務は<ungern>(いやいやながらでも)行うべきものだ!」と熱っぽく語っておられた。どうやらその「義務」熱が、抗体をもっていなかった女子学生たちに感染したためだったらしい。

小倉先生の饅頭好き

 小倉先生は、ことのほか饅頭がお好きで、お茶菓子によく饅頭を買ってこられた。授業の合間に院生に出されたり、あるいは個人的に越智先生や弘先生のお部屋にもって行かれたりした。饅頭が好きなものは、あまりいなかったが、そんなことはおくびにもださず、みんな、1時間か2時間、「桃太郎」のお供をしたものだという。
 どの先生も停年ちかくなるとやさしくなるが、小倉先生もまたそうだった。そのころになると、饅頭は、学生の好みにあわせて、「ケーキ」に変わっていた。

小倉先生のサーカス好き

 先生は、どういうわけか、サーカスがお好きで、木下サーカスなどが広島にやってくると、そわそわとされるのだった。しかし、一人でいくのは気がひけたのであろう、同伴者を求められた。しかも、自分が行きたいというのではなく、「誘われて、しかたなく行くのだ」という形にしなくては駄目のようだった。それで、毎日、助手の越智先生のところへ現われては、サーカスの話をされた。とうとう根負けして越智先生は、「先生、行かれませんか」とおさそいすることにしたという。「越智君が、行こう行こうというから、やむをえず行くことにした」と満足げにおっしゃりながら、先生は、越智先生の手を引いてサーカスのテントに入って行かれるのであった。     註

小倉先生のお小言

 まだ越智先生が助手時代の頃、小倉先生とご一緒のところを、ある先輩が研究室に訪ねてこられた。そのとき越智先生は椅子に座ったまま応対したので、あとで小倉先生が次のように言われた。「こういうときには、椅子から立って応対するものだよ。そうしないのは新本君ぐらいなもんだ」と。とんだとばっちりが新本先生に回ってきたものだが、もうこの頃には、禅をされていた新本先生の境地は相当のところに達していて、周囲から何を言われようと「どこふく風」であった。

河野先生の演習

 河野先生のお話上手は天性である。ヘーゲルのようなむずかしい思想でも、われわれに分かるようにやさしくお話しされた。学生はその説明に熱中し、その場でヘーゲルが手に取るように理解できたが、自宅に帰って再びこれをひもとくと、狐につままれたようにさっぱり分からなくなっていた。

河野先生の「講義」

 まだ留学から帰られて間もない頃、ドイツの大学での講義の様子をお話しされ、「講義」とはドイツ語で<Vor-lesung>つまり「前で読み上げること」だとひとくさり講釈されたあとで、ご自身の原稿を「読み上げ」られた。学生はこれこそ学問の府だと思い、ひたすらノートを取り続け一様に疲労感に酔いしれた。哲学とは何と疲れることかと。この時代は、コーピー機が出たばかりで貴重品であった。

河野先生の音楽趣味

 河野先生は若い頃に哲学に進もうか、音楽に進もうか迷われたというだけあって、先生の音楽趣味はなかなかのもの。とりわけ歌のうまさは天下一品で、コンパの際にはその美声がよく披露された。また先生はオルガン(ピアノ)もお上手で、入学式や卒業式の際に恩師に請われて度々演奏されたとのこと。先生がシェリング研究を志されたのも、その芸術的な雰囲気に惹かれたからかもしれない。

河野先生の娘婿の条件

 学生たちが河野先生宅に招かれて行くと、大体のパターンが決まっていた。まず最初にワイン、次にお茶(これは奥様の守備範囲)、そして最後に先生自らが本物の日本刀をもってこられた。
 先生は宮本武蔵に憧れていたと言われるぐらいだからこの道の達人にちがいないが、剣道に通じていようといまいと、先生の目的は、家宝の伝授にあった。学生の中に、もし先生のお目にかなう娘婿候補がいれば「これをやるから…どうだ」という意味だったのだとか。その後、倫理の学生に刀が引き継がれたという話は聞いていないから、現在も先生がご自身でお持ちなのだろう。今日やくざが銃器をゴミ箱に捨てるご時世にあって、先生はどうやら家宝を手放すタイミングを失っせられたようだ。 

河野先生とブランドもの

 先生は見るからにリッチそうで、身の回りのものがすべてブランドものであった。食生活においても同様で、美味しい高級料理をたくさん召し上がっておられ、それが原因で、とうとう痛風にかかられた。そのため東千田キャンパス内をちょっと移動するのにも全身に激痛が走り、かなり苦しまれることになった。
  しかし、後日、その話をみんなに披露されたときに、先生にとっても苦い経験であったはずなのに、実に楽しそうに「痛風で」「痛風で」と連呼されていた。


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巻その3. わりと最近のひとのエピソード

弘先生の一芸

 コンパで全員の先生方に歌をうたっていただいたことがあった。弘先生は日頃からカラオケ嫌いで人前で歌をうたわれることは皆無といってよかったが、そのときはどういう弾みか酩酊しておられ、はじめてご披露された。歌は「線路は続くよ」であった。何でもお子さんの影響らしくて、その歌いぶりは先生の人生そのものを見るようで、どこまでも「まっすぐ」であった。

弘先生のひっこし

 先生が広大に来られるとき、すでに文学部は、西条に移転する予定になっていた。それで、同僚になる親切な新本先生は、「広島市内に来られるより、大学に通うにはしばらくは不便でしょうが、西条にひっこして来られた方がよいでしよう」とすすめられた。文学部の優柔不断など知るすべもなく、お酒の好きな弘先生、喜んで、酒都の西条にひっこされた。だが、西条に文学部が移転したのは、それから22年もあとのことだった。
 文学部の先生のなかには、そのころ、移転を前提に西条の方にうちをたてられた先生もあった。「来年こそは」、「再来年こそは」と移転を待たれたが、移転より自分の停年退職の方がずっとはやかった。だが、さすが鋭い直感を自認されている弘先生、その半年後、酒都にただよう新酒のかおりに後髪をひかれながらも広島市内にひっこされた。

弘先生とお菓子のお土産

  日頃、小倉先生にお饅頭をごちそうになっていた弘先生、ちょうど、学会帰りで、土産のお菓子をもってこられていて、研究室にお見えになった小倉先生に「おひとつ、どうぞ」と、菓子箱のままでさしだされた。
 ところが、小倉先生は、かんちがいされて、「どうもありがとう」と箱ごと自分の方に引き寄せられてしまったという。内気な弘先生が、「ひとつ」ではなく、箱ごとさしあげることに思いを変えられたのはいうまでもない。

弘先生ののんびりした一面

 神戸と言えば暴力団山口組のお膝元。そんな神戸でかつて研究会が開かれた。その日、新神戸駅構内は黒装束のいかつい形相のおにいさんたちで満ちあふれおり、同僚のだれしもがただ事ならぬ雰囲気を感じ取り、おそれをなして小さくなっていた。そこに弘先生が悠然と現れて「今日はいやに結婚式が多いですね」と一言。われわれは、もちろん、それを耳にした「おにいさん」たちも、これには、おそれいってしまった。

美男子の弘先生をめぐって

 弘先生は、美男子で、いつまでも若々しかった。四十になっても、まだ、学生とまちがわれることがあったという。広大の新入生全体の歓迎のキャンプのとき、教官としてついていったのに、他の部局のものから、しばしば新入生とまちがえられてこまったとのことである。
 奥さんも大した美人で、その両親から生まれたお子さんも、当然、美人となり、最近、モデルさんになっておられて、町のポスターなどで見かけることができる。
 内気で控えめな先生のこと、ふつうなら、みんなに吹聴することになるが、あまり、話されなかった。しかし、内心は世間なみの状態だったようで、JRのポスターに大きく出ていたころには(まだ見かけることがある)、そのポケット版をちゃんと、カバンのなかに用意されていた。


ひとに頼るな

  弘先生と越智先生が東北の飯豊連峰に登山したとき、主食になるお米を、両者とも相手がもっていると思って山に入り、いざ食事の準備というとき、ふもとの旅館においてきてしまったことにやっと気がついた。「飯豊」な山で空腹のため死にそうな思いをするはめになったという。
 以後、ふたりが一緒に登山するすがたを見たものはいない。


尺八と新本先生

 先生が尺八の名手であることは、よく知られているが、現代の若者は、これを聞きたいとは思っていない。でも、先生は、ひよっとしたら、出番があるかも知れないと、合宿研修などには、こっそり尺八を持参されるのである。
 学生が油断していると、依頼もしないのに、「ひとつ、お聞かせしましようかね」とはじめられる。学生は、えらい迷惑顔なのだが、さすが禅で悟りを開いておられる和尚さんだけのことはあって、ひきつけるものがあり、みんなしーんとなって拝聴してしまうのである。


新本先生の剛胆ぶり

 新本先生は新制大学のご出身であるが、先生が入学された頃は研究室はまだ旧制の名残をとどめていた。その一例が先輩と後輩の上下関係である。教室コンパのときには教授、助教授、助手、大学院生、大学生といった身分秩序がはっきりしており、新入生は最後列であった。だから後輩が先輩にたてつくということは絶対にあってはならない教室の不文律でもあった。ところが先生は先輩が「真理とは永遠のものだ」と言われたときに「それでは進歩がないではないか」と反論され、その不文律の無効をかくも簡単に宣言され、教室も民主主義の戦後をむかえることができたのだった。

新本先生の書

 先生は、書も上手である。今年(1996年3月)の卒業生には、みんな、書を記念に渡された。もう、先生の書をけなすひとがいなくなったことが自信につながっているようである。
 先生の話によると、かつては、かなり手厳しい批判者がまわりに満ち満ちていたらしい。30才のころ、先生が、「ある人に頼まれて、表札を書きました」と恩師になられる山本空外(幹夫)先生に話されたところ、書豪・空外先生は、「それは、ジ(字)をかいたというのではなく、ハジ(恥)をかいたというものだ」と言って笑われたとのことである。

近藤先生の無口

 弘先生は、内気で、無口だったが、後任の近藤先生は、別に無口だからと採用されたのでもなかろうが(それまで一見識もなかったようだから)もっと無口である。
 自宅の近くに考古学の河瀬先生が住んでおられ、ある酒の席で、河瀬先生が「近藤さんは、うちの近くのマンションに住んでおられるが・・、」といわれたことがあったとか。実際は、そうではなく、一応、庭もある一戸建に住んでおられるのだが、先生は、その誤解を解く口の労をとられることはなかったという。口数の多いひとの誤解を解くには、一口では済まないし、その誤解が弊害を生むわけでもないからと。
 河瀬先生は、いまでも、「近藤先生のいるマンション」の入り口の方は、さけて、裏道を通っておられると聞く。

 

授会の居眠り

 最近の倫理学の先生は、大体におとなしく、教授会でも、指名されないかぎりは、発言されることはあまりないという。
 なかでも近藤先生は、会議の大半は眠られているとか聞く。なんでも、その前夜は、教授会でよく眠れるようにと少なめに寝ておられるとか。会議が終わると多くの先生は、「やれやれ、疲れたなあ」といわれるのだが、先生は、無口だが、「ああ、すっきりした」とつぶやかれ、元気いっぱいになって夜道をJR西条駅まで小一時間かけて歩いて出られるのだという。


越智先生の愛妻家ぶり

 越智先生が無類の愛妻家だということはよく知られている。先生がまだ苦学生で予備校で教鞭をとっておられた頃、授業が終わって帰る前に必ず奥さんに電話をし、しゃべる内容も、いつも同じであった。「ああ、もしもしジュンコ(奥さんの名前)、ぼくだ、いまから帰る」と。だから予備校で越智先生と一度も言葉をかわしたことのない人でさえ、奥さんの名前がジュンコであることは知っていた。(後日談。いまでも、きちょうめんに、それは守っておられる。強いて昔とちがう点をあげるとしたら、電話する時間が、しばしば深夜になっているということぐらいである。)

越智先生の桃源郷

 越智先生は学生のころ、静かな環境をもとめて下宿をたびたびかえられた。あるとき牛田(広島市)の山頂付近に閑静な下宿先を見つけ、早速そこにひっこしされた。下宿への道は急勾配でせまく、バイクが通るのがやっとであった。だれも近寄れない仙人のような生活が堪能でき、まさに桃源郷・この世の春であった。だがそのうち先生は大きな計算間違いをしでかしたことに気づきはじめた。それは、し尿処理の問題であった。当然下宿先まで衛生車は入ってこれず、先生は自らの下(しも)の世話をせざるをえなくなったのである。以来、先生は現実ばなれした理想への思いを断ち、すっかり現実主義者になった。 

越智先生のパソコン

 先生がパソコン狂いになろうとは、だれも思っていなかったという。文学部ではじめてパソコンを導入されたのは弘先生であるが、機種はVMといって、フロッピーディスクを差し替えて使う極めて原始的なものであった。その当時、越智先生は助手をされていて、パソコンが大の嫌いであり、研究室にパソンコンを導入することに、また哲学研究者がパソコンに触ることに真っ向から反対されていたのである。
 ところが10年前、とうとう弘先生の誘惑にまけてしまい、「禁断の果実」を味わってしまった。それからというもの、弘先生などそっちのけで、パソコンにのめりこんでいかれた。いまや、自宅にも研究室にも何台ものパソコンをならべて、朝な夕なパソコン三昧なのである。
 最近、その「果実」のひとつを越智先生は、新本先生と近藤先生にすすめられた。虹色をした珍種(マッキントッ種)のアップルで、新本先生は、口にあわず食べるのをやめられた。が、近藤先生は、少しかじって、そのかじりかけを院生にまわし、「インターネットのホームページに、みんな個人ページをのせるように」などと強要されることになった。その元凶が越智先生にあることをみんな知っているから、「近藤先生にへんな果実をすすめないでください、われわれが迷惑しますから」と越智先生のところへ院生たちは、苦情を言いに行っている。

松井先生とジェットコースター

 先生は学生時代に生まれてはじめてジェットコースターを体験され、そのときは心臓も張り裂けんばかりの恐怖感におそわれ「もう金輪際乗るまい」と決心されたようだ。しかし後年、家族サービスでディズニーランドに行った際にその誓いはもろくもくずれ、人生二度目の挑戦になった。
 先生は順番待ちをしている途中で何度か発狂しそうになったとのこと。が、子どもの前では毅然と振る舞わねばならないと思い必死に我慢していた。そしていよいよその時がやってきたのである…。が、終わって帰ってきたとき先生は、人生最大の危機を乗り切ったような気になり、すっかり興奮しそれはそれは嬉しかったという。前回とは異なり目を開けたまま「きゃー」「あー」と絶叫されたのがよかったのか、あまり恐怖感がなかったとのことである。

禁煙のことなら松井先生に聞け!

 松井先生は、ヘビースモーカーであった。当然、何回も禁煙をこころみ、何回でもこれに成功することのできた禁煙のベテランである。
 最終的な成功は(若い先生に向かってこういうのは、まだいくらでも「成功」のチャンスがあるのだから、失礼であろうか)、先生のばあい、甘酸っぱい飴「小うめちゃん」を始終口にしていることだったという。だが、この恋しい「小うめちゃん」への欲望からも解放されなくてはならないはずだった。
 その執心は、そうとうなもので、好奇心おうせいな越智先生が、「そんなにいいものなのか」と大学の近所のお菓子屋さんに買いにいったら、どこもかしこも「小うめちゃん」は品切れ。松井先生が買い占めていたのだという。先生の下宿には、ダンボール箱いっぱいの小うめちゃんがあり、外出時は、ポケットにいっぱいつめこんで、片時も小うめちゃんを離すことはなかったとか。しかし、それほどの執心も、思いがけないかたちで解消されることになった。しばらくして、先生は、ひどい虫歯になり、その激痛が、いとも簡単に「小うめちゃん」から解放してくれたのである。

岡野先生とお歳(その1)

 先生は広大には、4年間おられて停年となった。63歳停年制のことである。しかし、常に若々しい印象の先生であった。広島大学にお出でいただくため、越智先生は東京に行き東京駅で待ち合わせをされたのだが、なかなか、岡野先生らしき人が見つからなかった。待ち合わせの人々が入れ替わりたちかわりするなかで、ひとり、トンボめがねを頭に載せた美人が越智先生と同様、30分ほど待ちぼうけであるのに気が付いた。ひよっとしてと思い、「ナンパ」と誤解されるかもと顔を赤らめつつ、たずねたとのこと。なんと、その美女が、岡野先生であった。

岡野先生とお歳(その2)

 先生が停年のとしの卒業式の日。倫理の卒業生と教室で茶話会を開き、門出を祝い、先生も教室にお別れをと、歓談していたときのこと、こうおっしゃていた。「わたしが、いつの日か、年取ったときには、・・・」と。お姿のみではなく、気持ちも若いおつもりであることがわかったと、停年間近の近藤先生がびっくりされていた。

岡野先生のご主人はドイツ人?

 岡野先生が広島大学に赴任される前に、越智先生は必要があって岡野先生のご自宅に電話された。すると「グーテンターク!マイナーメ・イスト・オカノ。」という男性の流暢なドイツ語が返ってきた。越智先生はその瞬間ミスったと思い、あわてて「ロングナンバー、ソリー」といって電話を切られた。今度は間違いないことを確認して慎重にコール。すると再び「グーテンターク!…」というドイツ語が返ってきた。こんなことがあって以来、広島では岡野先生のご主人はドイツ人という噂が流れた。そして着任日に岡野先生がご主人を伴ってこられるというので、みんなは緊張しながら待った。しかし現れたのは先生お一人であって、ドイツ人はどこにも見当たらなかった。ふとみると、横でせっせと荷物を運んでおられる日本人がいる。越智先生はこの人はだれだろうと、ずっと気になっていたら> しいのだが、その人こそ岡野先生のご主人であった。


後日談:岡野先生ご夫妻はドイツでの生活が長いので、電話の応対はドイツ式になりがちだそうで す。加えて日本ではセールスの電話が多いのでそれを避ける目的もあるようです。とすれば越智先生 はたちの悪いセールスマンに間違えられた可能性があります。


岡野先生のパートナー

 岡野先生は、フェミニズム研究者だけあって、人前で自分のパートナーをけっして「ご主人」とは いわれない。だいたい「ツレ」である。日本人でも自分のパートナーを「ツレ」という人がいるが、 ほとんどは照れ隠しからである。「妻」の代わりに、「かみさん」や「うち」という場合も似た感情 が働いている。また「ツレ」には、人生の伴侶という意味もある。ところが岡野先生の場合にはどち らにも当てはまらない。大学でも、学会でも、ドイツでも、ご夫婦はいつもご一緒であった。文字ど おり連れ立っておられた。だから岡野先生がご主人を「ツレ」といわれるのは、長い<人生>の意味 ではなく<今−ここ>の意味であろう。そうしなければ、お二人は<ツレない>関係になってしまう からである。

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  ( 註 )
小倉先生からの間違いのご指摘 
 このページをまさか小倉先生がご覧になるとは、だれも予想していなかったのですが、どうも、お子さんかお孫さんが発見されて、先生、ご覧になったようです。1997年秋の九州大学での日本倫理学会の懇親会でのこと、「見たよ」と、近藤先生と松井先生に感想をのべられ、自分の関係する項に関して、先生は、例の調子で皮肉っぽく「あれ(倫理学研究室の逸話集)をみたら、どうして『聖書』ができたかヨーわかるわぃ。ありゃーデタラメだよ、オオウソだ!」と『聖書』を、本「逸話集」にまでひきさげて批判しておられました。本ページについていうと、具体的には、二点間違いがあるとのことでした。
 一点は、先生が白井先生とおちあわれたのは、「お茶の水」ではなく、「水道橋駅」だったのだそうです。
 このことについて、当編集委員会は、さっそく検討しましたが、白井先生か小倉先生ご自身がまずは話しはじめられたはずですから、当然、はじめは「水道橋」であったにちがいないのに、どうして「お茶の水」になったのかが問題となりました。いわゆる聖者の伝説がそうであるように、伝承されるなかで次第に、学的なイメージをもった「お茶の水」へと「理想化」されることになったのであろうということになりました。つまり、伝承のなかで、事実(Sein存在)が、あるべきすがた(Sollen当為)・理想(Ideal)にと高められたということです。この倫理学の逸話集は、『聖書』のように、当為や理想を大切にしたいということで、本文は、聖なる伝説のままに「お茶の水」としておき、しかし、また、事実は、それとして大切ですから、それはそれとして、ここに注記しておこうということになりました。    
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 もうひとつは、越智先生をさそってサーカスにいったのは、一回のみで、また、たまたま切符が2枚あったので、「どうだ」と言ったのみのことだとおっしやっていました。
  サーカスの件は、あるいは、小倉先生のおっしゃるのが「事実」により近いのかもしれません。が、門下生・卒業生は、小倉先生と越智先生のこの話を、伝承するなかで、理想(Ideal)化して、繰り返して酒のさかなにしてきたことです。veritas in vino(酒中に真あり)ということもあります。いささか怪しげな伝説・逸話集ではありますが、なるべく伝承のままを大切にしようということで、小倉先生には少し我慢していただいて、先生のご記憶の「事実」はここにしっかりと「注記」しながらも、理想(Ideal)の方をとって、やはり、このままにしておこうということになりました。


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