卒業論文
令和5年度
日本における安楽死制度化のリスクと優生思想との関係 |
ドストエフスキーにおけるニヒリズム克服の試みとその現代的意義 |
ゴティエの社会契約論とエゴイズムのもっともらしさ |
親鸞における宗教的自覚の構造について:西田幾多郎の「逆対応」を手がかりに |
『親ガチャ失敗』は責任転嫁の言葉なのか |
ロールズの「正義論」における功利主義批判は妥当なのか |
シュタイナー教育思想:大人自身への教育について |
令和4年度
人格の持つ固有の尊厳の観点から差別が許容される状況を考える:世界からのサプライズ動画の事例を引用して |
結婚制度から同性カップルを除外すべき理由はあるか |
低用量ピルの使用率と性教育 |
シュタイナー教育思想:大人自身の教育について |
安楽死・尊厳死における自己決定権の問題 |
不倫は常に悪になるのか? |
児童期におけるシュタイナー教育の有用性:物質主義からの脱却 |
デューイの道徳理論に基づく道徳教育の考察 |
犯罪報道における被疑者の実名報道をめぐる考察 |
仮想現実での幸福は本物の幸福か? ノージックの経験機械論の検討 |
見た目とそれに基づく第一印象を私たちはどこまで参考にするべきか |
自殺の権利についての考察 |
雇用における男女平等とアファーマティブアクションの正当性に関する考察 |
倫理的に肉食は可能なのか |
功利と直観の対立におけるG.E.ムーアの道徳哲学が持つ意義の考察 |
令和3年度
ロールズの原初状態における「正義感覚」の検討 |
漫画『ルックバック』の表現修正は正しかったのか?:フィクションに対する向き合い方の倫理の構築 |
マイケル・サンデルのリベラル批判 |
ゲームプレイ動画の鑑賞態度をめぐる倫理的考察 |
SNSのメディアとしての特徴の考察とSNS投稿の倫理 |
女性アイドルと恋愛の問題はどうあるべきか |
炎上広告とジェンダー規範 |
南方熊楠の考える「萃点」と環境倫理 |
現代技術文明における人間の生:ハイデガーの技術論を手がかりに |
動物倫理学による「動物に対する不正」に関する考察 |
通常学級の教員に求められる発達障害への意識 |
SOGIEから見る内面的性と外見的性の関係性 |
死について:死への恐怖を和らげることは可能か |
令和2年度
AIに倫理観を持たせることは出来るか:自動運転車における検討 |
人の容姿を評価の対象に含めることは正当か?:ルッキズムの再検討 |
平和教育における原爆劇の有効性 |
畜産と慰霊の倫理について |
エーリッヒ・フロムにおける倫理観 |
現代のいじめとそれを取り巻く環境についての考察 |
トマス・ネーゲルの利他主義 |
アウティングとジェンダー・アイデンティティについて |
災害時に我々はどのような行動をすべきか |
現代カント倫理学から見る動物の権利論 |
ハイトとグリーンの道徳心理学における他罰性の功罪 |
ネーゲルの性愛の倫理についての考察 |
現代における自他の関わりの在り方について:「いき」をきっかけとした考察 |
平成31年(令和元年)度
サッカーにおいて高校生がプロのような意図的なファウルをすることは許されるのか。 |
我々は何を考えて自分の人生に取り組むべきなのか:トマス・ネーゲルの論点を出発点にして |
競技スポーツにおける公平性について:セメンヤ問題を考える |
超越的人工知能(HLMI-Human level Machine intelligence)と人類のこれからについて:シンギュラリティとの向き合い方 |
現代の公衆衛生における古典功利主義の射程:エドウィン・チャドウィックの思想から |
平成30年度
親鸞における人間観―悪と倫理の関係を軸として― |
現代における討議倫理の構築―ハーバーマスを手がかりに― |
ボルノー教育学の日本的受容 |
「自殺」の善悪における考察 |
セネカの道徳論における “clementia” の位置づけ |
生まれてくること―ベネター論を軸とした中絶の是非― |
現代日本人の死生観 |
現代の幸福論 |
平成29年度
道徳の起源としての共感 |
ジオパークにおける場所論―「ジオ・マインド」からの考察― |
テクノ・ユートピアは実現可能か |
孤独について―『ツァラトゥストラ』を通じて― |
「愛」に関する考察~日常生活における愛の存在~ |
犬・猫の殺処分問題について |
他者理解のための「言語」の位置づけの研究 |
安楽死は生命倫理学的に許されるべきか |
社会契約説における利己心 |
死のあり方について |
平成28年度
山本空外の「国体思想」解釈 |
消費社会の環境倫理 |
スッタニパータにみる初期仏教 |
レヴィナス研究 |
人間の性格について―ショーペンハウアーを通じて― |
パスカルの賭についての研究 |
平成27年度
小滝 柊平 | ヘルマン・コーヘンの空間論 |
松永 赳堯 | 反捕鯨活動の思想― 『実践の倫理』からの解釈 |
添田 麻衣 | 家族の観点からみた生命倫理 |
岡崎 秀幸 | T.H.グリーン倫理学の研究―その道徳的発展について |
榎 大輔 | 山本空外の思想の研究―空外のプロティーノス解釈を軸に |
藤田 哲道 | 他者存在のためのファッション |
平成26年度
土井 久仁香 | 性別の存在 性別における役割の佐 |
松下 晃大 | 『知覚の現象学』における身体性の研究 |
波多野 瑠璃 | 肉食の動物倫理―ピーター・シンガーを中心にして― |
高橋 真琴 | ハーバーマス討議倫理の研究 |
日野林 和弥 | 正義の多元性について |
大間 恵介 | ホスピタリズムと自己肯定感の関係とその影響について |
平成25年度
杉本 智子 | カント定言命法の研究 |
有川 佑貴子 | 自己概念の考察 |
田邊 慧里 | 「いき」の民族的特殊性 |
野添 茉莉花 | ショーペンハウアーの意志について |
今石 英恵 | ボルノーの「存在信頼」について |
南薗 直弥 | ベルクソン研究 |
松本 茜 | 不安との向き合い方について |
平成24年度
新穂 あずさ | 現代生活と幸福論―生命保険論を視野に入れて― |
橋本 祐太 | 近親相姦はなぜタブーとされるのか |
松末 優一 | 分業の効率性と労働者への弊害―アダム・スミスの国富論を軸として― |
多田 和代 | 言葉とその社会的機能 |
中坊 柚季那 | ピーター・シンガー『実践の倫理』に関する研究 |
修士論文
令和5年度
野生動物の生命はどれほど重要か:動物権利論の射程とその限界 |
ニーチェにおけるニヒリズム克服とその現代的意義 |
道徳的進歩の基準に関する哲学的考察 |
令和3年度
華字婦人雑誌『女声』における女子解放論:フェミニズムの視点から |
家庭教育における親の倫理的役割:日本と中国における道徳教育観の比較を通して |
ソーシャル・ロボットの社会的受容とその倫理的設計に関する考察 |
西田幾多郎の思想における「矛盾」の現代的意義 |
無縁社会における「つながり」に関する倫理学的考察 |
マインドフルネス・ムーブメントの思想背景に関する考察 |
令和2年度
キケロのストア派受容:理論的評価とその実践におけるその活用について |
平成31年(令和元年)度
学校教育におけるデューイ教育思想の受容と展望に関する考察―日中比較の視点から― |
カントの認識論と自由概念―H・E・アリソンの「取り込みテーゼ」によるカント哲学の再解釈 |
平成30年度
シュタイナー教育と中国の「素質教育」についての研究 |
中村雄二郎の「臨床の知」に関する研究 |
谷川徹三「平和の哲学」―世界連邦論を中心に |
平成29年度
現代中国における高齢者問題の諸相 |
日本におけるT.H.グリーン思想の展開―グリーン的権利思想の側面からの戦中・戦後の社会思想の一潮流についての考察 |
平成28年度
福祉・医療現場における意思尊重の欺瞞性 |
ハーバーマスの討議における同意の解明 |
高等教育機関における情報倫理教育―日中比較の視点から― |
平成27年度
杉岡 幸代 | R.シュタイナーの幼児教育思想に関する研究―実践家E.M.グルネリウスとの関係を軸に― |
小田 真衣 | 日中韓歴史問題の克服の在り方―和解と赦しの視点から |
平成25年度
前原 明日香 | アーレントと居場所としての関係性 |
平成24年度
中本 慶彦 | アダム・ファーガソンの道徳思想 |
森田 健介 | 茶道思想―茶経考察、禅・易のこころ― |
孫 月馨 | シュタイナー教育の意義と展望―中国への移入に着目して |
博士論文
令和5年度
任 雅楠 | 日中におけるデューイ思想の受容と展望に関する考察:大正期と中華民国期の比較を通して |
令和4年度
鄭 西吟 | 中村雄二郎の「臨床の知」に関する研究:芸術への展開に向けて |
令和2年度
余 佳城 | 研究倫理に関する考察:「所有権」と「正義」を中心に |
蔡 源玥 | 医療従事者-患者関係の再考:「信頼関係」の再構築に向けて |
黄 萍 | 「甘え」に関する言語・倫理学的研究 |
平成30年度
嶋崎 太一 | カントにおける自然の形而上学の体系 |
平成26年度
岡本 慎平 | J.S.ミルの経験哲学 |
竹田 敏彦 | 学校教育法第11条但書(体罰の禁止)に関する研究 |
奥田 秀巳 | 信頼の倫理学的考察 |
平成25年度
王 艶麗 | 和辻哲郎の日本人論とその周辺―風土考以前から日本精神考へ― |
平成24年度
伊藤 潔志 | キルケゴールの人間理解と伝達理論に関する研究 |
手代木 陽 | ドイツ啓蒙主義哲学における「蓋然性」の研究 |