倫理学講座(教授1、助教授1)と倫理思想史講座(教授1、助教授1)の二講座からなる。
教室(二講座)に助手が1名あったが、一昨年、学部改革のために供出。かわりに、現在、事務補佐員1名。
(現在の教室の教職員や大学院生や学部学生については、それぞれのページをご覧ください。)
四半世紀まえまでのことについては、『広島大学二十五年史 部局史』(昭和52年3月 広島大学刊行)の「第一編文学部 第二章教室史 第四節倫理学教室」にまとめてあります。
まずは、それをここにすこし短くして再録しておきます。
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当倫理学教室は、戦前の「広島文理科大学」の伝統を受けついでおり、文理大当時は、三講座だったが、昭和24年(1949年)5月、新制大学発足にあたって、「東洋倫理学講座」を中国哲学教室へ移したため、二講座になった。
当初の講座名は、「ドイツ倫理学」と「英国倫理学」となっていた。発足当時の教官は、白井成充教授、森滝一郎教授、永野羊之輔助教授、小倉貞秀講師だった。
白井は、主として、日本倫理思想中心の講義を担当、演習には、日本浄土教、ドイツ倫理思想関係のテキストを使用した。森滝は、倫理学概説を担当し、英国倫理思想の演習を行い、永野は、英国のギリシア哲学研究に関する特殊講義と演習をし、小倉は、ドイツ倫理学の講義・演習をもった。
昭和28年(1953年)3月、白井が停年退官。同年4月、山本幹夫教授を迎える。山本は、日本倫理思想と西洋倫理思想通史の講義を担当する。29年4月には、小倉が助教授に昇進。
昭和40年3月、原水爆禁止の運動に力をそそいだ森滝(昨年93才で亡くなるまで、以後も一貫して原水爆禁止に尽力)が停年退官し、同年4月、河野真助手が助教授に昇進。後任助手には、新本豊三が採用された。同40年8月、永野が教授に昇進したが、同年11月他界。翌41年3月、山本幹夫が停年退官(退官後は僧名を山本空外と称し宗教界で活躍.)。
昭和41年(1966年)4月、講座名を、「ドイツ倫理学」と「英国倫理学」から、「倫理学」と「倫理思想史」に改称する。
42年4月、新本が講師に昇進。43年10月には、小倉が「倫理学講座」教授に昇進。
この当時、小倉は、倫理学概論と、近世・現代倫理思想の特殊講義と演習を担当し、大学院では、現象学的価値倫理学をテーマとした。河野は、西洋倫理思想通史とドイツ観念論の特殊講義・演習を担当し、大学院では、シェリング後期の倫理学的研究をテーマとした。新本は、日本倫理思想史の古典をもって、特殊講義・演習をおこなった。
昭和45年(1970年)4月、新本が助教授に昇進、47年4月、弘睦夫が「倫理思想史講座」助教授として採用された。弘は、英米の倫理思想、分析哲学・科学哲学を専門とした。49年6月には、河野が「倫理思想史講座」教授に昇進した。
以上のようにではつづられています。それ以後について、同様のかたちで以下に略述しておきます。
昭和62年(1987年)3月 | 小倉が停年退官。同年4月、新本が「倫理学講座」の教授に昇進。 |
昭和63年3月 | 河野(現在、安田女子大学学長)が停年退官。平成元年(1989年)年4月、越智貢助手が「倫理学講座」の講師に昇進。 |
平成2年(1990年)4月 | 弘が「倫理思想史講座」教授に昇進。 |
平成3年4月 | 越智が助教授に昇進。 |
平成4年4月 | 近藤良樹が「倫理思想史講座」の助教授として採用される。 |
平成6年(1994年)3月 | 発足以来の広島市中区東千田のキャンパスから、東広島(西条)に文学部が移転する。 |
平成7年3月 | 弘が停年1年前にして転出(東亜大学大学院教授として)。同4月、近藤が教授に昇進。 |
平成8年4月 | 松井富美男が「倫理思想史講座」の助教授として採用される。 |
平成9年(1997年)3月 | 新本豊三が停年退官(福山平成大学へ)。同4月、越智が、教授に昇進。 |
平成10年 | 大講座化(西洋哲学・インド哲学・倫理学がひとつになり、「応用倫理・哲学講座」となる)にともない、倫理学教室を形式的には解体。実質的には小講座として存続。 |
平成12年(2000年)4月 | 岡野治子(実践女子大より)が教授として採用される。 |
平成16年(2004年)3月 | 岡野停年退官(4月より清泉女子大学へ)。 |
平成16年4月 | 松井が教授に昇進。 |
平成16年4月 | 広島大学が国立大学法人となる。 |
平成18年4月 | 衛藤吉則が応用倫理・哲学講座(倫理学分野)助教授として採用される。 |
平成20年3月 | 近藤停年退職(4月より福山平成大学へ)。 |
平成20年4月 | 講座名を「応用哲学・古典学」に改称。 |