沿革

巻その3. わりと最近のひとのエピソード

弘先生の一芸

 コンパで全員の先生方に歌をうたっていただいたことがあった。弘先生は日頃からカラオケ嫌いで人前で歌をうたわれることは皆無といってよかったが、そのときはどういう弾みか酩酊しておられ、はじめてご披露された。歌は「線路は続くよ」であった。何でもお子さんの影響らしくて、その歌いぶりは先生の人生そのものを見るようで、どこまでも「まっすぐ」であった。


弘先生のひっこし

 先生が広大に来られるとき、すでに文学部は、西条に移転する予定になっていた。それで、同僚になる親切な新本先生は、「広島市内に来られるより、大学に通うにはしばらくは不便でしょうが、西条にひっこして来られた方がよいでしよう」とすすめられた。文学部の優柔不断など知るすべもなく、お酒の好きな弘先生、喜んで、酒都の西条にひっこされた。だが、西条に文学部が移転したのは、それから22年もあとのことだった。
 文学部の先生のなかには、そのころ、移転を前提に西条の方にうちをたてられた先生もあった。「来年こそは」、「再来年こそは」と移転を待たれたが、移転より自分の停年退職の方がずっとはやかった。だが、さすが鋭い直感を自認されている弘先生、その半年後、酒都にただよう新酒のかおりに後髪をひかれながらも広島市内にひっこされた。


弘先生とお菓子のお土産

  日頃、小倉先生にお饅頭をごちそうになっていた弘先生、ちょうど、学会帰りで、土産のお菓子をもってこられていて、研究室にお見えになった小倉先生に「おひとつ、どうぞ」と、菓子箱のままでさしだされた。
 ところが、小倉先生は、かんちがいされて、「どうもありがとう」と箱ごと自分の方に引き寄せられてしまったという。内気な弘先生が、「ひとつ」ではなく、箱ごとさしあげることに思いを変えられたのはいうまでもない。


弘先生ののんびりした一面

 神戸と言えば暴力団山口組のお膝元。そんな神戸でかつて研究会が開かれた。その日、新神戸駅構内は黒装束のいかつい形相のおにいさんたちで満ちあふれおり、同僚のだれしもがただ事ならぬ雰囲気を感じ取り、おそれをなして小さくなっていた。そこに弘先生が悠然と現れて「今日はいやに結婚式が多いですね」と一言。われわれは、もちろん、それを耳にした「おにいさん」たちも、これには、おそれいってしまった。


美男子の弘先生をめぐって

 弘先生は、美男子で、いつまでも若々しかった。四十になっても、まだ、学生とまちがわれることがあったという。広大の新入生全体の歓迎のキャンプのとき、教官としてついていったのに、他の部局のものから、しばしば新入生とまちがえられてこまったとのことである。
 奥さんも大した美人で、その両親から生まれたお子さんも、当然、美人となり、最近、モデルさんになっておられて、町のポスターなどで見かけることができる。
 内気で控えめな先生のこと、ふつうなら、みんなに吹聴することになるが、あまり、話されなかった。しかし、内心は世間なみの状態だったようで、JRのポスターに大きく出ていたころには(まだ見かけることがある)、そのポケット版をちゃんと、カバンのなかに用意されていた。


ひとに頼るな

  弘先生と越智先生が東北の飯豊連峰に登山したとき、主食になるお米を、両者とも相手がもっていると思って山に入り、いざ食事の準備というとき、ふもとの旅館においてきてしまったことにやっと気がついた。「飯豊」な山で空腹のため死にそうな思いをするはめになったという。
 以後、ふたりが一緒に登山するすがたを見たものはいない。


尺八と新本先生

 先生が尺八の名手であることは、よく知られているが、現代の若者は、これを聞きたいとは思っていない。でも、先生は、ひよっとしたら、出番があるかも知れないと、合宿研修などには、こっそり尺八を持参されるのである。
 学生が油断していると、依頼もしないのに、「ひとつ、お聞かせしましようかね」とはじめられる。学生は、えらい迷惑顔なのだが、さすが禅で悟りを開いておられる和尚さんだけのことはあって、ひきつけるものがあり、みんなしーんとなって拝聴してしまうのである。


新本先生の剛胆ぶり

 新本先生は新制大学のご出身であるが、先生が入学された頃は研究室はまだ旧制の名残をとどめていた。その一例が先輩と後輩の上下関係である。教室コンパのときには教授、助教授、助手、大学院生、大学生といった身分秩序がはっきりしており、新入生は最後列であった。だから後輩が先輩にたてつくということは絶対にあってはならない教室の不文律でもあった。ところが先生は先輩が「真理とは永遠のものだ」と言われたときに「それでは進歩がないではないか」と反論され、その不文律の無効をかくも簡単に宣言され、教室も民主主義の戦後をむかえることができたのだった。


新本先生の書

 先生は、書も上手である。今年(1996年3月)の卒業生には、みんな、書を記念に渡された。もう、先生の書をけなすひとがいなくなったことが自信につながっているようである。
 先生の話によると、かつては、かなり手厳しい批判者がまわりに満ち満ちていたらしい。30才のころ、先生が、「ある人に頼まれて、表札を書きました」と恩師になられる山本空外(幹夫)先生に話されたところ、書豪・空外先生は、「それは、ジ(字)をかいたというのではなく、ハジ(恥)をかいたというものだ」と言って笑われたとのことである。


近藤先生の無口

 弘先生は、内気で、無口だったが、後任の近藤先生は、別に無口だからと採用されたのでもなかろうが(それまで一見識もなかったようだから)もっと無口である。
 自宅の近くに考古学の河瀬先生が住んでおられ、ある酒の席で、河瀬先生が「近藤さんは、うちの近くのマンションに住んでおられるが・・、」といわれたことがあったとか。実際は、そうではなく、一応、庭もある一戸建に住んでおられるのだが、先生は、その誤解を解く口の労をとられることはなかったという。口数の多いひとの誤解を解くには、一口では済まないし、その誤解が弊害を生むわけでもないからと。
 河瀬先生は、いまでも、「近藤先生のいるマンション」の入り口の方は、さけて、裏道を通っておられると聞く。 
 


教授会の居眠り

 最近の倫理学の先生は、大体におとなしく、教授会でも、指名されないかぎりは、発言されることはあまりないという。
 なかでも近藤先生は、会議の大半は眠られているとか聞く。なんでも、その前夜は、教授会でよく眠れるようにと少なめに寝ておられるとか。会議が終わると多くの先生は、「やれやれ、疲れたなあ」といわれるのだが、先生は、無口だが、「ああ、すっきりした」とつぶやかれ、元気いっぱいになって夜道をJR西条駅まで小一時間かけて歩いて出られるのだという。


越智先生の愛妻家ぶり

 越智先生が無類の愛妻家だということはよく知られている。先生がまだ苦学生で予備校で教鞭をとっておられた頃、授業が終わって帰る前に必ず奥さんに電話をし、しゃべる内容も、いつも同じであった。「ああ、もしもしジュンコ(奥さんの名前)、ぼくだ、いまから帰る」と。だから予備校で越智先生と一度も言葉をかわしたことのない人でさえ、奥さんの名前がジュンコであることは知っていた。(後日談。いまでも、きちょうめんに、それは守っておられる。強いて昔とちがう点をあげるとしたら、電話する時間が、しばしば深夜になっているということぐらいである。)


越智先生の桃源郷

 越智先生は学生のころ、静かな環境をもとめて下宿をたびたびかえられた。あるとき牛田(広島市)の山頂付近に閑静な下宿先を見つけ、早速そこにひっこしされた。下宿への道は急勾配でせまく、バイクが通るのがやっとであった。だれも近寄れない仙人のような生活が堪能でき、まさに桃源郷・この世の春であった。だがそのうち先生は大きな計算間違いをしでかしたことに気づきはじめた。それは、し尿処理の問題であった。当然下宿先まで衛生車は入ってこれず、先生は自らの下(しも)の世話をせざるをえなくなったのである。以来、先生は現実ばなれした理想への思いを断ち、すっかり現実主義者になった。 


越智先生のパソコン

 先生がパソコン狂いになろうとは、だれも思っていなかったという。文学部ではじめてパソコンを導入されたのは弘先生であるが、機種はVMといって、フロッピーディスクを差し替えて使う極めて原始的なものであった。その当時、越智先生は助手をされていて、パソコンが大の嫌いであり、研究室にパソンコンを導入することに、また哲学研究者がパソコンに触ることに真っ向から反対されていたのである。
 ところが10年前、とうとう弘先生の誘惑にまけてしまい、「禁断の果実」を味わってしまった。それからというもの、弘先生などそっちのけで、パソコンにのめりこんでいかれた。いまや、自宅にも研究室にも何台ものパソコンをならべて、朝な夕なパソコン三昧なのである。
 最近、その「果実」のひとつを越智先生は、新本先生と近藤先生にすすめられた。虹色をした珍種(マッキントッ種)のアップルで、新本先生は、口にあわず食べるのをやめられた。が、近藤先生は、少しかじって、そのかじりかけを院生にまわし、「インターネットのホームページに、みんな個人ページをのせるように」などと強要されることになった。その元凶が越智先生にあることをみんな知っているから、「近藤先生にへんな果実をすすめないでください、われわれが迷惑しますから」と越智先生のところへ院生たちは、苦情を言いに行っている。


松井先生とジェットコースター

 先生は学生時代に生まれてはじめてジェットコースターを体験され、そのときは心臓も張り裂けんばかりの恐怖感におそわれ「もう金輪際乗るまい」と決心されたようだ。しかし後年、家族サービスでディズニーランドに行った際にその誓いはもろくもくずれ、人生二度目の挑戦になった。
 先生は順番待ちをしている途中で何度か発狂しそうになったとのこと。が、子どもの前では毅然と振る舞わねばならないと思い必死に我慢していた。そしていよいよその時がやってきたのである…。が、終わって帰ってきたとき先生は、人生最大の危機を乗り切ったような気になり、すっかり興奮しそれはそれは嬉しかったという。前回とは異なり目を開けたまま「きゃー」「あー」と絶叫されたのがよかったのか、あまり恐怖感がなかったとのことである。


禁煙のことなら松井先生に聞け!

 松井先生は、ヘビースモーカーであった。当然、何回も禁煙をこころみ、何回でもこれに成功することのできた禁煙のベテランである。
 最終的な成功は(若い先生に向かってこういうのは、まだいくらでも「成功」のチャンスがあるのだから、失礼であろうか)、先生のばあい、甘酸っぱい飴「小うめちゃん」を始終口にしていることだったという。だが、この恋しい「小うめちゃん」への欲望からも解放されなくてはならないはずだった。
 その執心は、そうとうなもので、好奇心おうせいな越智先生が、「そんなにいいものなのか」と大学の近所のお菓子屋さんに買いにいったら、どこもかしこも「小うめちゃん」は品切れ。松井先生が買い占めていたのだという。先生の下宿には、ダンボール箱いっぱいの小うめちゃんがあり、外出時は、ポケットにいっぱいつめこんで、片時も小うめちゃんを離すことはなかったとか。しかし、それほどの執心も、思いがけないかたちで解消されることになった。しばらくして、先生は、ひどい虫歯になり、その激痛が、いとも簡単に「小うめちゃん」から解放してくれたのである。


岡野先生とお歳(その1)

 先生は広大には、4年間おられて停年となった。63歳停年制のことである。しかし、常に若々しい印象の先生であった。広島大学にお出でいただくため、越智先生は東京に行き東京駅で待ち合わせをされたのだが、なかなか、岡野先生らしき人が見つからなかった。待ち合わせの人々が入れ替わりたちかわりするなかで、ひとり、トンボめがねを頭に載せた美人が越智先生と同様、30分ほど待ちぼうけであるのに気が付いた。ひよっとしてと思い、「ナンパ」と誤解されるかもと顔を赤らめつつ、たずねたとのこと。なんと、その美女が、岡野先生であった。


岡野先生とお歳(その2)

 先生が停年のとしの卒業式の日。倫理の卒業生と教室で茶話会を開き、門出を祝い、先生も教室にお別れをと、歓談していたときのこと、こうおっしゃていた。「わたしが、いつの日か、年取ったときには、・・・」と。お姿のみではなく、気持ちも若いおつもりであることがわかったと、停年間近の近藤先生がびっくりされていた。


岡野先生のご主人はドイツ人?

 岡野先生が広島大学に赴任される前に、越智先生は必要があって岡野先生のご自宅に電話された。すると「グーテンターク!マイナーメ・イスト・オカノ。」という男性の流暢なドイツ語が返ってきた。越智先生はその瞬間ミスったと思い、あわてて「ロングナンバー、ソリー」といって電話を切られた。今度は間違いないことを確認して慎重にコール。すると再び「グーテンターク!…」というドイツ語が返ってきた。こんなことがあって以来、広島では岡野先生のご主人はドイツ人という噂が流れた。そして着任日に岡野先生がご主人を伴ってこられるというので、みんなは緊張しながら待った。しかし現れたのは先生お一人であって、ドイツ人はどこにも見当たらなかった。ふとみると、横でせっせと荷物を運んでおられる日本人がいる。越智先生はこの人はだれだろうと、ずっと気になっていたら> しいのだが、その人こそ岡野先生のご主人であった。


後日談:岡野先生ご夫妻はドイツでの生活が長いので、電話の応対はドイツ式になりがちだそうで す。加えて日本ではセールスの電話が多いのでそれを避ける目的もあるようです。とすれば越智先生 はたちの悪いセールスマンに間違えられた可能性があります。 


岡野先生のパートナー

 岡野先生は、フェミニズム研究者だけあって、人前で自分のパートナーをけっして「ご主人」とは いわれない。だいたい「ツレ」である。日本人でも自分のパートナーを「ツレ」という人がいるが、 ほとんどは照れ隠しからである。「妻」の代わりに、「かみさん」や「うち」という場合も似た感情 が働いている。また「ツレ」には、人生の伴侶という意味もある。ところが岡野先生の場合にはどち らにも当てはまらない。大学でも、学会でも、ドイツでも、ご夫婦はいつもご一緒であった。文字ど おり連れ立っておられた。だから岡野先生がご主人を「ツレ」といわれるのは、長い<人生>の意味 ではなく<今-ここ>の意味であろう。そうしなければ、お二人は<ツレない>関係になってしまう からである。


  ( 註 )


小倉先生からの間違いのご指摘 


 このページをまさか小倉先生がご覧になるとは、だれも予想していなかったのですが、どうも、お子さんかお孫さんが発見されて、先生、ご覧になったようです。1997年秋の九州大学での日本倫理学会の懇親会でのこと、「見たよ」と、近藤先生と松井先生に感想をのべられ、自分の関係する項に関して、先生は、例の調子で皮肉っぽく「あれ(倫理学研究室の逸話集)をみたら、どうして『聖書』ができたかヨーわかるわぃ。ありゃーデタラメだよ、オオウソだ!」と『聖書』を、本「逸話集」にまでひきさげて批判しておられました。本ページについていうと、具体的には、二点間違いがあるとのことでした。
 一点は、先生が白井先生とおちあわれたのは、「お茶の水」ではなく、「水道橋駅」だったのだそうです。
 このことについて、当編集委員会は、さっそく検討しましたが、白井先生か小倉先生ご自身がまずは話しはじめられたはずですから、当然、はじめは「水道橋」であったにちがいないのに、どうして「お茶の水」になったのかが問題となりました。いわゆる聖者の伝説がそうであるように、伝承されるなかで次第に、学的なイメージをもった「お茶の水」へと「理想化」されることになったのであろうということになりました。つまり、伝承のなかで、事実(Sein存在)が、あるべきすがた(Sollen当為)・理想(Ideal)にと高められたということです。この倫理学の逸話集は、『聖書』のように、当為や理想を大切にしたいということで、本文は、聖なる伝説のままに「お茶の水」としておき、しかし、また、事実は、それとして大切ですから、それはそれとして、ここに注記しておこうということになりました。   白井先生の項にもどる

 もうひとつは、越智先生をさそってサーカスにいったのは、一回のみで、また、たまたま切符が2枚あったので、「どうだ」と言ったのみのことだとおっしやっていました。
  サーカスの件は、あるいは、小倉先生のおっしゃるのが「事実」により近いのかもしれません。が、門下生・卒業生は、小倉先生と越智先生のこの話を、伝承するなかで、理想(Ideal)化して、繰り返して酒のさかなにしてきたことです。veritas in vino(酒中に真あり)ということもあります。いささか怪しげな伝説・逸話集ではありますが、なるべく伝承のままを大切にしようということで、小倉先生には少し我慢していただいて、先生のご記憶の「事実」はここにしっかりと「注記」しながらも、理想(Ideal)の方をとって、やはり、このままにしておこうということになりました。

白井先生の項にもどる   小倉先生の項にもどる