沿革

教室の逸話

教室の杓子定規な「沿革」をあえて知りたいひとは、ここをクリックして下さい。
そんなものには興味はないが、教室の逸話ぐらいなら見てやろうというひとは、このままつづけて読んでいって下さい。

巻その1. ずっと昔のひとの語りぐさ

西は、西だが、東は、西田?

 戦前のこと、西晋一郎先生は、「西倫理学」を展開されて、当教室をささえられていた。いまでも、「西倫理学」は、わが国の哲学・倫理学の研究対象の一つになっている。その当時、京都の西田幾多郎さんが、集中講義に広島文理大に来られたとき、学生が、そのサインをもらってよろこんでいるのを見て、西先生のお弟子さんたちは、不快感をかくしきれず、「東は、西田だが、西は、西だ。」といきまいておられたという。


すきのない西晋一郎先生

 西先生は戦前の国体思想を推進された方であり、その著書の数々は岩波書店から出版され、今でも本屋さんで時々見かけることがある。西先生から感化されたお弟子さんの一人が先生の過去をあばいてやろうと奮闘した結果、小学校時代の成績表を見ることができたが、なんと、オール優であった。そのお弟子さんは「さすがに西先生だ、隙がない」と言って大層くやしがったそうだ。


西先生と山本先生

 戦前の話、山本幹夫先生がドイツへ留学されていたときのこと、その留学先に西先生が訪ねて来られ、その夜、山本先生に「お酒が飲みたい」と言われた。そのとき山本先生は留学中の身でもあり、またプロティノス研究を深めたい一心でもあったので、ご高名な西先生にしては随分不謹慎なことを言われると思われたという。
 だが後日、山本先生もお酒の味を覚えられると昔の西先生を思い出しながら、「あのときは先生の気持ちが、よう分からんかったが、お酒もなかなかいいものだ。何事も自分で経験してみんと分からんものじゃ」と言われたそうだ。  


白井先生の拝礼

 白井先生は言行一致を実践された方で、そのお姿そのものが「倫理学」で、講義を始められる前には必ず、いにしえの諸聖人にむかって拝礼されたという。


白井先生のドイツ語

 白井先生がドイツ語をゆっくりとしゃべられるので、現地のある人が「どうしてこんなにスローなのか」と山本先生に質問された。そこで山本先生は「いや、白井先生はドイツ語だけでなく日本語でもそうですよ」とお答えになったそうだ。


白井先生と小倉先生

 白井先生は、無口で穏和であったという。白井先生と小倉先生の共訳による『カントの道徳哲学』が岩波文庫から出版されているが、その頃の話。小倉先生は、白井先生から岩波書店に紹介してもらうために上京された。待ち合わせ場所は「お茶の水駅」であったという。ところが小倉先生は、駅の東口と西口とをまちがえ、それに気づいてあわてて約束の場にかけつけた時、白井先生は、ただ一言「田舎者は困りますな」と言われたそうだ。日頃、よけいなことを一切おっしゃらなかった白井先生の唯一のお言葉であった。   


シュヴアィツアーと森滝先生

 先生が、生命の無差別的愛に徹底していたシュヴアィツアーに会われたとき、アフリカの蚊が氏をさしたのを、しっかりと見ておられた。たたきつぶすことを期待されていたのだが、なんと、じっとがまんの子であったという。


森滝先生の平和運動

 森滝先生は、西先生の娘婿で、戦前は国体学を講じておられた。しかし、自ら被爆体験されたのを機に、戦後は平和運動に尽力された。その奮闘ぶりは大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』でも紹介されている。周知のように先生は、核兵器の全面廃止を訴えて平和公園でよく座り込みをされた。


森滝先生の義眼

 先生は、原爆投下のときにガラスの破片が突き刺さって片目を失明された。そのために一方の目は義眼であった。日本倫理学会で「平和」について講演されているときに、先生は、突然その義眼を取り外して皆にお示しになったことがある。「目は口以上にものを言う」であった。


永野先生と奥様

 永野先生ご夫妻は共に九大のご出身で、しかも先生はその倫理学研究室の、奥様は(カント学者で)哲学研究室の助手をされていた。そんなお二人であったから、家庭にあっても哲学精神はいかんなく発揮された。学生が先生宅にお邪魔したときのこと、先生が奥様に「お茶を出してくれないだろうか」と言われたら、「あなたがなされば」と奥様はおっしゃったという。また別のある日、同僚の先生が、ご自宅に伺ったら、先生は、玄関口で、「ちょっとそとにいきましようか」と言われて、そのまま外の提灯屋に向かわれたそうだ。


永野先生の庶民性

 永野先生は、なりふりを気にされない方であった。新本先生がまだ大学院生の頃、先生は、囲碁相手を求めて半ズボン姿でしばしば新本先生の下宿先にやって来られた。先生が学生のところに遊びに行くことは当時としては異例なことであったが、先生はそれを一向に意にかいされなかった。
 永野先生は、のちに舌ガンになられ、手術された。一度は復帰されたが、まもなく再発。よほどしんどかったのであろう、しばしば研究室のソファーで横になって休んでおられた。しかし、そのお姿も、そんなに長く見ることはできなかった。 


山本先生と原爆

 広島に原爆が投下されたとき、山本先生は、たまたま海田におられた。その日、先生は、広島駅で教え子と待ち合わせをしていたが、ちょっとしたハプニングがあって列車が遅れてしまい、そのために命拾いをすることになった。しかし、約束の時間にたがえずに広島駅で待っていた教え子の方は、原爆で亡くなった。
 まもなく終戦。先生は、出家された。京都の知恩院にはいられ、僧侶となられたのであった。その後、ふたたび、広大にかえられたわけだが、先生は、いつも、「わしゃ、一遍死んだという気があるからの」と言われていた。現在94歳、浄土宗の僧侶としてご健在である。


山本先生の茶会

 山本先生は、学期末には、かならず院生たちを自宅に招き、抹茶を出し、夏は、日本料理、冬は、かきの土手焼き(または、すき焼き) をごちそうして下さった。休みまえになると、院生は、それを楽しみにして、「今週はお招きの挨拶があるはずだ」「いや来週だろう」などとうわさし、心待ちにしたという。そのおかげで抹茶を立てる作法をマスターした者は、すくないが、飲む方は、上手になったとのこと。


山本先生からの言い伝え

 山本先生は、一者(神)からの流出を説くプロティノスの演習で<wenn anders>という箇所を発見すると、「これは苟(いやしく)も~ばと訳すのじゃ」と学生に諭された。そのとき新本先生はもちろん学生であったが、「これは適訳だ」と思われたそうだ。後年、新本先生ご自身がハイデガーの演習でこの語に遭遇したとき、「僕の先生から教えてもらったんじゃが、これは苟も~ばと訳すとぴったりする」と、やはり当時学生であった松井先生に伝授された。そのとき松井先生は「苟も~ば」がどういう意味かはよく分からなかったが、とにかく大切な教えにちがいないと信じて、コーエンの演習でこの言葉に出くわして「これは倫理学研究室の伝統で、苟も~ばと訳すらしい」と、自信なげに院生たちに伝授するのであった。かれこれ40年以上にもなるというのに「一者」からの「流出」はまだ続いているようだ。