沿革

巻その2. すこし昔の人のエピソード

小倉先生の演習(1)

 小倉先生の演習は厳しいことで有名で、初回の授業にラテン語文をもってこられ「これが読めない者は直ちに去れ!」といわんばかりに学生を圧倒されるのであった。そのため学生はいやいやながら語学の勉強を始めるか、それとも立ち去るかいずれかであったと聞く。最初は一人か二人の欠席者がそのうちに三人、四人…と増えていき、最後にはインディアンが一人もいなくなることもあったそうだ。


小倉先生の演習(2)

 他大学から倫理学研究室に入学したばかりのある院生がカントの第二批判の翻訳を持参してきていた。そして何かの折に翻訳をもとに話をしていたら、いきなり小倉先生が「大学院では翻訳を使うな!」と言われた。その後、院生は真面目にドイツ語に取り組むあまり、すっかり「陰性」なっていった。


小倉先生の演習(3)

 小倉先生の翻訳にシェーラーの『永遠なるもの』(白水社)があるが、この訳を手がけられた頃から俗語の訳にうるさくなられた。その一例が<und doch>である。ドイツ語を読んでいてこの語に遭遇すると、必ずストップされて「それどころかと訳すのだ」と耳にたこのできるほど諭された。そのため、ついには院生の一人が広大生賛歌の替え歌にまで採用し、「ああ、それなのに、それなのに、ちょっと…」というくだりになると、「ウントドッホ、ウントドッホ」と囃したてる始末。とにかく「ドイツ語の一字一句をおろそかにするな!」が先生の口癖であった。 


学会での小倉先生

 先生は学会でよく質問をされた。それが使命だと感じておられたようだ。若い人の発表が終わると、ぐるっと周りを見渡してだれも手を挙げていないのを確認すると、おもむろに「小倉だが」と言って質問を開始された。相手の返答が意をえない場合には、先生は次第にいらいらされ、そのいらいらが極度に達すると、「その言葉は本に何回でてくるか!」と詰問された。発表者はこの質問に答えられるはずもなく呆然と立ちつくしているのみだが、その降参姿勢を見届けられると、先生は「分からないようだから教えてあげよう。××回だよ」と言われた。その光景は質問というよりもほとんど「いじめ」であった。


小倉先生と「義務」チョコ

 わが倫理学教室には昔から女性軍が何名かは在籍しており、ある時期、女子学生の間で義理チョコが流行った。そんなある年、小倉先生もチョコレートをもらわれたが、それは全く前例のないことであった。
 その年度、先生はカントの講義で「義務は<ungern>(いやいやながらでも)行うべきものだ!」と熱っぽく語っておられた。どうやらその「義務」熱が、抗体をもっていなかった女子学生たちに感染したためだったらしい。


小倉先生の饅頭好き

 小倉先生は、ことのほか饅頭がお好きで、お茶菓子によく饅頭を買ってこられた。授業の合間に院生に出されたり、あるいは個人的に越智先生や弘先生のお部屋にもって行かれたりした。饅頭が好きなものは、あまりいなかったが、そんなことはおくびにもださず、みんな、1時間か2時間、「桃太郎」のお供をしたものだという。
 どの先生も停年ちかくなるとやさしくなるが、小倉先生もまたそうだった。そのころになると、饅頭は、学生の好みにあわせて、「ケーキ」に変わっていた。


小倉先生のサーカス好き

 先生は、どういうわけか、サーカスがお好きで、木下サーカスなどが広島にやってくると、そわそわとされるのだった。しかし、一人でいくのは気がひけたのであろう、同伴者を求められた。しかも、自分が行きたいというのではなく、「誘われて、しかたなく行くのだ」という形にしなくては駄目のようだった。それで、毎日、助手の越智先生のところへ現われては、サーカスの話をされた。とうとう根負けして越智先生は、「先生、行かれませんか」とおさそいすることにしたという。「越智君が、行こう行こうというから、やむをえず行くことにした」と満足げにおっしゃりながら、先生は、越智先生の手を引いてサーカスのテントに入って行かれるのであった。    


小倉先生のお小言

 まだ越智先生が助手時代の頃、小倉先生とご一緒のところを、ある先輩が研究室に訪ねてこられた。そのとき越智先生は椅子に座ったまま応対したので、あとで小倉先生が次のように言われた。「こういうときには、椅子から立って応対するものだよ。そうしないのは新本君ぐらいなもんだ」と。とんだとばっちりが新本先生に回ってきたものだが、もうこの頃には、禅をされていた新本先生の境地は相当のところに達していて、周囲から何を言われようと「どこふく風」であった。


河野先生の演習

 河野先生のお話上手は天性である。ヘーゲルのようなむずかしい思想でも、われわれに分かるようにやさしくお話しされた。学生はその説明に熱中し、その場でヘーゲルが手に取るように理解できたが、自宅に帰って再びこれをひもとくと、狐につままれたようにさっぱり分からなくなっていた。


河野先生の「講義」

 まだ留学から帰られて間もない頃、ドイツの大学での講義の様子をお話しされ、「講義」とはドイツ語で<Vor-lesung>つまり「前で読み上げること」だとひとくさり講釈されたあとで、ご自身の原稿を「読み上げ」られた。学生はこれこそ学問の府だと思い、ひたすらノートを取り続け一様に疲労感に酔いしれた。哲学とは何と疲れることかと。この時代は、コーピー機が出たばかりで貴重品であった。


河野先生の音楽趣味

 河野先生は若い頃に哲学に進もうか、音楽に進もうか迷われたというだけあって、先生の音楽趣味はなかなかのもの。とりわけ歌のうまさは天下一品で、コンパの際にはその美声がよく披露された。また先生はオルガン(ピアノ)もお上手で、入学式や卒業式の際に恩師に請われて度々演奏されたとのこと。先生がシェリング研究を志されたのも、その芸術的な雰囲気に惹かれたからかもしれない。


河野先生の娘婿の条件

 学生たちが河野先生宅に招かれて行くと、大体のパターンが決まっていた。まず最初にワイン、次にお茶(これは奥様の守備範囲)、そして最後に先生自らが本物の日本刀をもってこられた。
 先生は宮本武蔵に憧れていたと言われるぐらいだからこの道の達人にちがいないが、剣道に通じていようといまいと、先生の目的は、家宝の伝授にあった。学生の中に、もし先生のお目にかなう娘婿候補がいれば「これをやるから…どうだ」という意味だったのだとか。その後、倫理の学生に刀が引き継がれたという話は聞いていないから、現在も先生がご自身でお持ちなのだろう。今日やくざが銃器をゴミ箱に捨てるご時世にあって、先生はどうやら家宝を手放すタイミングを失っせられたようだ。 


河野先生とブランドもの

 先生は見るからにリッチそうで、身の回りのものがすべてブランドものであった。食生活においても同様で、美味しい高級料理をたくさん召し上がっておられ、それが原因で、とうとう痛風にかかられた。そのため東千田キャンパス内をちょっと移動するのにも全身に激痛が走り、かなり苦しまれることになった。
  しかし、後日、その話をみんなに披露されたときに、先生にとっても苦い経験であったはずなのに、実に楽しそうに「痛風で」「痛風で」と連呼されていた。