義村一仁追悼特集

卒業論文ー「ヒュームの行為論.共感とその可能性.」

2018.09.03

はじめに

本論文の目的は、デイヴィッド・ヒューム(以降ヒュームと記載する)の著書 『人性論』において述べられている‘共感(sympathy)’という作用について考察することにより、「人間は根本的に何に基づいて道徳的に行為するのか」という問に対する答えを探ることである。

人間の生涯は、絶え間ない選択の連続といってよいだろう。意識的にせよ無意識的にせよ、我々は自らの行動を選択し決定している。そして、少なくとも意識的な選択においては、その場における最良の選択肢を選びとることを目指すのである。もちろんこの場合の‘最良の選択’が、誰にとって、あるいは何にとって最良なのかについては、その場の状況や各人の思想といった諸要素によって様々であろう。ただし、いかなる場合であれ我々が最良の選択をしようと心がけること自体は一様に共通しているといって差し支えないであろう。

このように考える時、私はある疑問を抱かずにはいられない。結局のところ、それらの選択は何によって為されるのか。多くの場合、我々は自己自身や自己に近しい人物にとって有益な選択肢を最良の選択肢として選びとる。しかし、同時に我々は、道徳的に善悪を判断し行為するという側面も併せ持つ。この場合、行為の善悪を判断するもの、その行為を我々に行わせるだけの確かな根拠となっているものは何なのであろうか。すなわち、冒頭に挙げた問いへと繋がるのである。

この問に対しては、今日まで多くの思想家によって様々な答えが示されているが、大まかに見ればその根拠を理性的要因に見出す考え方と、感情的要因に見出す考え方とに区分できよう。私自身は後者の見解を支持したい。人間は確かに理性的な生き物である。しかし、理性を本質とする生き物であるとは思えない。我々の実生活を顧みれば、理性を排除して感情の赴くままに行動することはできても、逆に感情を取り除き理性のみに従って動くことは不可能と思われるからである。

とはいえ、感情はその個別的な性質故にはっきりとした定義付けが難しく、また、実践レベルにおいても曖昧で変動し易いものであるため、そこに行為の根拠を求めるのは無理がある、という批判が成り立つのも確かである。また、実際に人間が各々の感情に従って好き勝手に動けば、他者を無視して己の利益のみを目指す者が現れ、その結果社会の形成がままならなくなるという危惧もあろう。これらの批判に答えるためには、普遍性を持たない感情でも行為の根拠として十分に成り立ち得ること、更にはそれらを根拠に据えた場合でも他者との関わりを前提とする道徳が無理なく作用することを示す必要がある。

本論文で扱う『人性論』、中でも特に‘共感(sympathy)’という作用の考え方には、そのための糸口が豊富に含まれている。以降の考察によってヒュームの述べる共感について整理し、現代社会の実情とも照らし合わせながら、冒頭の問に対する自分なりの答えを模索していきたい。

 

第1章 ヒュームの基本的な立場

1 善悪の判断

共感の作用に関する考察に入る前に、その前提となるヒュームの思想について、本章で概略をまとめておく必要がある。

ここで考えるのは、我々がある行為に対して善悪の判断を下す時、その根拠は何に基づくのか、という問題である。善悪の判断は道徳的に行為するために不可欠な要素であるため、その仕組みを紐解くことは、本論文全体の課題に対する回答の第一歩となるはずである。

さて、これを明らかにするには、まず善悪の判断が我々の理性の働きのみによってなされるのか、あるいはそこに他の要素が働く余地があるのか、という問題について検討する必要がある。ヒュームは「哲学は普通に思弁的と実践的とに区分される」(14頁)と定義した上で、「道義は常に後者の区分に包含される」(14頁)と述べている。ここでいう実践的な哲学とは、文字通り実践の場面で我々の行動や情念に直接関係する領域である。これは経験的に感じ取り判断できる事柄に重きを置くものであり、形而上学等の観念的領域を議論する思弁哲学とは区分される。ヒュームはこの実践的哲学の領域に道徳を置いた。すなわち、道徳は情念に作用し、ある時は我々を様々な行動へと駆り立て、ある時は我々の行動に歯止めをかける、極めて実践的な作用なのである。

一方、ここでの理性の作用に関して、ヒュームは「道徳は理性から来ることができない道理」(14頁)が成り立つと述べている。というのも、理性のみでは前述したような情念や行動への影響力を決して持つことができないためである。「理性は情念の奴隷である」1)という主張からも読み取れる通り、ヒュームは感情を補助するものとして理性を位置づけている。ヒュームは、理性が我々の行為に影響を及ぼす場合について、「理性がその本来の対象である或る物の存在を告げて、よって以て情念を喚起するとき」(17頁)か、あるいは「理性が原因結果の結合を発見して、かくて情念を発動する手段を供与するとき」(17頁)のいずれかであると述べている。つまり、情念の向かう対象を我々に伝えるか、もしくは情念がその目的を達するための最適な道筋を示すか、という二つの点でしか、理性は行為に介入できないのである。行為の直接の原因となれない理性の能力について、ヒュームは「この点において全く無能である」(14頁)と断言し、「道義のいろいろな規則は理性の結論ではない」(14頁)と主張する。このように、ヒュームの示す道徳とは、理性の働きによって観念的に判定できるものではなく、情念に対する作用を感覚として経験的に感じ取るものであるといえる。

私がヒュームの思想に賛同する理由の一つがここにある。道徳とは我々が正しい行為をなすための規範となるものである。そして我々は、我々の実態からかけ離れ、実現可能性が希薄もしくは皆無である領域に、規範を見出すことをおそらくしないであろう。実現不可能という判断を下された時点で、それは規範としての効力を著しく失うと考えられるためである。規範とは、そして道徳とは、それに従う者の実態にある程度即していなければならない。その点で、ヒュームが道徳を経験的に感じ取れるものと定義したことは、理に適っているといえるのではないだろうか。

それでは、具体的にどのようにして、我々は道徳的善悪の、すなわちものごとの有徳・悪徳の判断を下しているのか。この問に対するヒュームの答えは実に単純明快である。それらの判断を下す際の動機として、彼は「目撃したとき我々に満足または不快を感じさせる原理を明示すれば充分であろう」(35頁)という考えを示している。我々は徳から快を、悪徳から不快を、それぞれ感じ取ることができる。言い換えれば、我々が快を感じるものは有徳であり、不快を覚えるものは悪徳であると判断できるというわけである。この主張の例としては、愛情と憎悪についての判断が示されている。何故我々は何の疑問も抱かず、愛情を評価し憎悪を批難するのか。ヒュームによれば「愛情は、これによって湧き立たせられる人物にとって直接に快適であり、憎悪は直接に不快適である」(226頁)ため、両者はそれぞれ有徳と悪徳とに区分されるのである。

善悪の区別という重要な判断が、このような単純な動機によって為されることに対しては、少なからず疑問の声を生むことになるかもしれない。しかし、前述したように道徳は我々の情念に作用するのであり、そのため理性の能力を必要としないほどに単純で、それでいて明瞭な根拠でなければならない。特に善悪の区別は最も基本的で、それでいて重要な判断であるため、尚更この条件を満たしている必要がある。快・不快もまた、情念に作用する印象としては最も基本的な部分であり、それでいて我々の行動に及ぼす影響力は非常に強いものであるため、これらは善悪の判断根拠となり得るのである。

また、ここで述べられている快・不快が、必ずしも判断した時点で直接抱き得るものばかりとは限らないということも、感情を用いた道徳判断の妥当性を示すことに繋がろう。一時的な不快を受け入れてその先の快を目指す場合や、眼前の快を求めてその先に不快を招いてしまう場合等、我々は単純な快・不快の判断だけでは説明のつかない状況に置かれることもある。そのような場合、現在の状況から生じる快・不快のみで、善悪の判断を下すのは軽率であろう。「ヒュームの共感概念」という論文を発表した久保田顕二氏は、同論文内で、我々 の感じる快には直接的な快のみでなく、ある意味間接的な快である「有用さ」 も含まれると指摘している(『思想 2011年12月号』、岩波書店、 263頁参照)。眼 前の状況を見るだけでは不快を感じる場合でも、それが確かな快に繋がるものであることを感じ取ることができれば、それは我々にとって有用と見なされ、有徳と判断されるのである。これにより、一時の快楽に目が眩んで道徳的判断に支障をきたすという問題は解消されよう。

とはいえ、これらの説明のみではまだ懐疑的な見方を払拭しきるに至らないはずである。善悪の判断を個人の快・不快に委ねれば、人々は己の快のみを追求して行動すると考えられるわけであり、はたしてそこに本当に道徳的な善の選択などあり得るのか、という問が残るからである。この問に対しては、共感について扱う次章に、その回答を譲りたい。

 

2 普遍的人類愛の否定

道徳的善悪の判断基準についてのヒュームの立場を整理したところで、もう一つ考えておかなければならない事がある。そもそも、何故我々は道徳的な行為を評価し、自ら心がけようと努めるのであろうか。

この問への答えを、公共的な利害に対する顧慮によるものであるとする主張がある。確かに、道徳的な行為は社会の調和へと繋がり、公共的な利を生み出すと考えることができる。そういった意味で、この主張は道徳的行為の理由として的を射ている、という見方もできるかもしれない。

しかしながら、ヒュームはこの考えに懐疑的な立場をとっている。彼は、我々の道徳の根本に位置づけられるのは人類愛(benevolence)ではなく自愛( self love)であると考える。そのため、公共的利害への顧慮のみでは道徳的行為の根拠として不十分であると批判しており、以下に挙げる三つの観点からその理由を論じている。

第一に、道徳的正義の諸規則と公共的利害とが、自然に結びつくことはない。ヒュームは「公共的利害は、正義の諸規則の遵守に自然に附属するものでなく、人々が正義の規則の確立を人為的に黙約したのち、これに結合されるだけである」(49頁)と述べている。正義と黙約については次章で詳しく扱うが、ここで押さえておくべきは、道徳的な正義の規則と公共の利害とが結びつくという状況は自然に起こるものではなく、あくまで人為的な意図による過程を経てのみ現実となる、という点である。

第二に、個人の行動の中には万人に対して利益や損害を与えない行為も多く存在する、ということが挙げられる。ここでは、具体例として借金についての話が用いられている。借金およびその返済が秘密裏に行われる時、公衆は借り手の行動に何の利害も持たない。しかし、「この場合に返済の義務や責務がなくなったと断言しようとする道徳学者はひとりもない」(49頁)とヒュームが述べているように、道徳的義務や責務が公衆の利害への無関係を理由に効力を失うことなどあり得ない。つまり、道徳の作用は公共の利害に依存するものではないことがいえるのである。

第三に、公共的な利害はその崇高さ故に、現実的に我々を引き付ける性質を持っていない。このことについて考えるには、「経験の充分に証明するところ」 (49頁)という記述にもある通り、我々の実生活を顧みればよい。我々は常に公共の利害へ目を向けて行為しているわけではない、というのがヒュームの見解である。公共の利益とそれを目指す行動は、必ずしも個人の利益に直結するとは限らないばかりか、むしろこれに反することも多くある。ヒュームはこのことを前提とした上で、「公共的利害は、そうした私的利害に反対な行動に何らかの力を以て作用することはないのである」(50頁)と述べている。公共的利害は、我々が目指すにはあまりにも高い次元の理想であり、それ故に我々を駆り立てる動機となりえないもの、ヒュームの言葉を用いるならば「人類の一般を感動させるに足りない」(49~50頁)ものなのである。

これらの理由によって、我々の道徳は公共の利害への顧慮のみによるものではあり得ないということが論証されている。ヒュームはここでの結論として「個人的身分や職務や我々自身との関係から独立な人類愛、そういうような情緒は人間の心に存しない、と断言できよう。」(50頁)と述べ、無条件且つ普遍的な人類愛の存在を明確に否定する。

これには賛否両論あるかもしれないが、我々の実態と照らし合わせて考えれば納得できる結論といえるのではなかろうか。我々は人の命が皆等しく尊いことを知りつつも、それらの人々に等しく平等な愛情を向けることは、現実として不可能である。家族や恋人、友人といった身近な人々に抱く愛情と、自分と直接関わりのない見知らぬ他人に対して抱く愛情とを、全く同量・同質なものと言いきれる人間など、一体どこにいようか。このことから、普遍的な人類愛が我々に作用しているとは考え難いといわざるを得ない。

ただし、ヒュームは公共的利害を道徳的行為の根拠とすることは批判したが、双方の間に何の関係もないとは述べていない。つまり、たとえ我々の動機とならなくとも、道徳的行為の結果として公共的利害があることは否定していないのである。この考えは一見すれば、我々に作用するのは人類愛ではなく自愛であるとする前述の主張と食い違うもののようにも感じられる。事実、自愛についてはヒューム自身「自由にはたらくとき、我々を正直な行動へ引きつけなく、却って一切の不正義と不法との源泉である」(49頁)と述べており、その危険性を把握している。しかし、これらの主張は決して矛盾するものではなく、両立が可能なのである。我々は、自身に作用するのが自愛であると知りながら、同時に、それによって非道徳的行為に奔らないように、自らを抑制する必要がある。その際に不可欠となるのが、次章でまとめることになる共感( sympathy)の作用なのである。共感によって我々は、自愛を根本に持ちながら道徳的に行為することが可能となる。本章で扱った内容を念頭に置きつつ、その上で共感を用いて他者と、あるいは社会とどのように関わることができるのかについて、次章で議論を進めることとする。

 

第2章 『人性論』における共感(SYMPATHY)

1 共感の働き

ここまで行ってきた考察だけではまだ、我々の道徳的行為について十分に論じきれたとはいえない。何故なら、前章における考察はあくまで各個人単位で完結するものに止まっており、そこに他者との関わりを考慮する必要があるからである。我々は他者との関わり無くしては生きられない。そこで本章では、他者と関わる中での道徳的行為についてまとめることとする。

さて、前章には未解決の課題がいくつか残されている。その一つは、我々が何故自愛を根本に置きながらも道徳的に行為できるのかを明らかにすることであった。前述したように、我々の人類愛は希薄なものであり、そこに普遍性や絶対性を期待することはできない。にも関わらず、我々は他者のために行為することができる。これらは、いかにして両立し得るのか。

ここで非常に重要な役割を果たすのが共感( sympathy)の作用である。通常、我々には他者の気持ちや感情は分からない。しかし、そこに共感という作用が働けば、ある程度まで他者と通じ合うことができ、その人のために行為するための確かな動機が生じ易くなるのである。

では、共感とはいかにして我々に作用するのか。

元々、他者の心は、ある程度まで自分の心持に近づけなければ、理解することも我々の心を動かすことも、決してできはしない。しかし、ヒュームは「すべての人の心はその感情及び作用において相似する」(185頁)という前提を示している。つまり、我々の情念には互いに似通った部分が少なからず存在するのである。

ヒュームはこの前提の下、「すべての情念はひとりの人物から他の人物へ即座に移って、すべての人間の心に対応的な運動を生む」(186頁)と述べている。この主張の根拠は、我々が他者の言動に対して無関心でいられないことにある。我々は他者の言動を目にした時、その原因となるものを読み取ろうとする。何故彼はこの行動に至ったのか。彼の情念にどのような変化があったのか。それらを感じ取ろうとするのである。ヒュームによれば、我々はその結果「情念の極めて生気ある観念を造る」(186頁)のである。そしてその観念は忽ち自らの情念そのものに還元され、これにより我々は自己の情念と同じように他者の情念を感じ取れるようになる。この一連の作用が共感である。

逆に、ある感情の原因となり得るものを知覚した時には、我々の情念はその結果として生じるであろう情念へと向かう。ヒュームは具体例として、大がかりな外科手術に立ち会う際の心情を挙げている。準備された手術用具の数々、患者や付添い人のあらゆる不安の表徴、それらは実際に手術が始まる前においてすら、見ている者に憐憫と恐怖との心持を喚起する、というのである。これも共感の作用である。

つまり、我々は他人の情念の原因もしくは結果を感知し、そこから情念そのものをも感じ取る。そうして感じ取った他者の情念は、自分自身の情念にも作用し、我々の心持に少なからぬ影響を与える。これが、他者に共感するということである。これにより、「他人のいかなる情念も直接には我々の心に現出しない」(186頁)としながらも、「これら原因あるいは結果が我々の共感を生起 する」(186頁)という主張が、矛盾なく成り立つのである。

この共感の作用こそが、我々の持つ自愛と、時として自愛に反する道徳的行為とを、両立させる鍵であると、私はここで重ねて主張しておきたい。前章で既に記した通り、我々の行動に直接影響を与えるのは情念である。したがって、他者の情念に共感して自身の情念が影響を受けた際には、当然自身の行為にも影響が生じることになる。たとえば、何かに困っている友人の不快に共感した場合、私の情念はこの友人を何とか助けたいという方向へ大きく突き動かされ、その結果実際に友人のために行動することに繋がる。つまり、我々が自己の利 害に反しても他者のために何かをしたいと感じ、実際にそのように行為する時とは、その人物の情念に強く共感した時に他ならないのである。その際の行為は結果として道徳的行為と位置付けられるかもしれないが、決して人類愛から生じたものではない。ただ自らの情念に正直に従った行為なのである。

さて、ここで共感の性質として重要な点を一つ挙げておかねばならない。共感は、万人に対して同じように働くものでは決してない、という点である。普遍的人類愛を否定したヒュームは、共感においてもその普遍性を否定する。我々は、相手が自分と近しい人物であればあるほど、その人物に対して強く共感することができ、逆に関わりの薄い人間には共感し難いのである。このことについては、普遍的人類愛を否定する際に記したことと同じ理由で説明できよう。すなわち、我々はどうしても、自分と近しい人々と、関わりのない他人とを、同列に考えることはできない。大抵の場合、我々にとっては、地球の裏側の人々の困窮よりも家族や友人の些細な悩みの方が心を動かすものなのである。

また、我々は自分と似た境遇の人物に共感を抱き易いという性質も持っているようである。このことについては、次の文章が端的に説明してくれている。「私がイタリアにいれば、イタリア在住のイギリス人は友である。シナにいれば、シナ在住のヨーロッパ人は友である。おそらく、月世界で人間に会ったとしたら、人間というだけで愛情を感じるだろう。」(51頁)。この文面からも読み取れるように、たとえ全くの他人であってもその人物に自分との共通点が見つか れば、我々はその人物に対する共感を抱き易くなるのである。

これらのことから、共感の作用も決して万能ではないことがいえる。しかし、それでも共感が我々を他者のための行為に向かわせる要因であることに変わりはない。ヒューム自身も共感を我々にとって極めて重要な作用と位置付けている。本章でその重要性を更に詳しく明らかにしていきたい。

 

2 共感と自然的徳

共感についての概略とその基本的な作用に関しては前述の通りである。しかし、『人性論』において言及されている共感の作用はそれだけにとどまらない。ヒュームにとって、共感はあらゆる徳の源泉なのである。我々の感じる徳には、自然的徳と人為的徳とが存在し、共感は、この二種類の徳に対して、それぞれ様々に作用する。ここではその中でも自然的徳に対する作用についてまとめることとする。

まず始めに明らかにしておきたいのは、自然的徳の一種である‘美しさ’に、より正確にいえば美しさを感じ取る美観に、共感がどのように関係するかという点である。ヒュームは美感について「大部分の場合に絶対的性質でなく、相対的性質である」(187頁)と位置づけ、「共感の原理に非常に依存する」(186頁)と主張している。「或る事物がその所持者の心に快を産む傾向を有するとき、該事物は常にこれを見る我々の眼に美しいと見なされる」(186頁)という記述の通り、ヒュームは我々が感じる快・不快がそれぞれ美しさや醜さをその事物に見出す要因であるという立場をとる。この際、その事物が我々に快を与えて美しいと見なされるのは、その事物がそれに関わる人物、とりわけそれを所有する人物の快感や利益を生むという傾向を持つためというのである。これらの快感と美とは区別されるものではないとヒュームは位置づけており、次のようにクィンティリアヌスの見解を挙げることで端的に説明している。「脇腹の引き締まった馬は恰好よい。しかし又、比較的迅くもある。練習で筋肉を鍛えた競技者は、見た眼に美しい。が又、競技にも比較的適する。実際、美は效用と決して分けられない。(クィンティリアヌス〔雄便術教程〕第八巻)」(187頁)。馬体の美しさはその馬の走力のもたらす快感と、また、競技者の肉体美はその人物が競技で活躍するという快感と、切り離すことはできないのである。そして、その快感は共感の作用によって、そのものの所有者や関係者のみならず、ただそれを見ているだけの人物の情念にまで快を与える。こうして、「有用なすべてのもののうちに我々の見出す美は、この共感の原理によるのである」 (187頁)というヒュームの見解が成り立つ。

しかし、この美感に関する考察については、共感の作用にそれほどまでに依存するものなのか、疑問の残るところである。ヒュームが並べる例は「家屋の便益・野の肥沃・馬の強さ・船の積載量や安固性や快走性」( 186頁)といったものである。確かにこれらを目にした際にその所有者が感じるであろう利益や快感に共感することはできよう。それによって生まれる羨望の情は、そのものをより価値ある美しいものに見せることに繋がりもしよう。しかし、我々の美感はその点のみから生じるわけではないのではなかろうか。この疑問は、人の所有できないものの美について考えればより顕著に浮かび上がる。たとえば、私は夕焼けに染まる空を美しいと感じるが、その際に夕焼けによって誰かが感じる快感を想像するわけではない。まして、夕焼けが誰かに利益をもたらすなどという想定をするわけでもない。前述の通り、本文中には「麗しいとか美しいとかは、大部分の場合に絶対的性質でなく、相対的性質である」(187頁)と記述されている。「大部分」という言い回しによってそこに例外の余地を残しているのは、ヒューム自身も共感の作用だけで美感について完全に語りつくすのは無理があると感じたのではないかと思われる。

とはいえ、共感が自然的徳に全く作用しないというわけではない。自然的徳は多くの場合、社会全体の幸福への傾向を有している。ヒュームによれば、特にその傾向が強いとされるのが「柔和や慈恵や慈善や寛仁や仁慈」(189頁)である。これらの自然的徳による幸福は個々の単独な行為から起る。ただし、これらの徳に対しても、ヒュームは「社会に対するかように広汎な配慮は、ただ共感からのみ我々はこれを持つのである」(190頁)と述べており、これは後にまとめることになる正義と、全く同じ性質である。すなわち、前章でまとめた通り、公共の善とされているだけでは我々の関心を引き付けるには足りず、そこに実質的な意味はない。しかし、共感を得られれば、公共の善は我々に快を生み、有徳なものと見なされるのである。

更に、共感は自然的徳を備えた人物への敬重を生み、それによってその徳そのものに対する敬重も喚起する。「我々は人間に不可能な事を期待しない。」 (224頁)という記述の通り、我々の他者への評価はあくまでその人物が自身と関わりのある範囲の人々とどのように接しているかという視点から下される。つまり、ある人物の有する徳がその人物自身の周囲の人々にとって有用であると感じれば、我々はその人物を称賛する。その際我々は、その人物の徳によって快を得た人々に共感することにより、自分に直接快がもたらされなかった場合においても、その人物を称賛できるのである。このことについてヒュームが提示する具体例の中では、快活な人物について述べたものが分かり易い。快活な人物についてヒュームは「仲間全体がその陽気に共感するところから、喜悦の情を仲間全体へ弥漫させる」(236頁)と説明している。共感によって広まった快は、我々にその人物に対する好印象を与え、快活さという性質そのものをも有徳なものと位置づけさせるのである。

また、興味深いことに、共感の作用は時に我々の恋愛感情を引き起こす切っ掛けにさえもなり得るという。整った容貌等の魅力、ヒュームの言葉を用いれば「歓楽を与える・才能」( 241頁)を備えた人物は、多数の異性から愛情を向けられることになる。そして、人々がこの人物に引かれる時、「心を動かされるのはただ、この人物と愛の交際を行う者に対する共感によるだけ」(241頁)というのがヒュームの見解である。しかしながら、この主張に当てはまる事例はさほど多くないと思われる。というのも、我々は通常、誰かに好意を抱くために、第三者の情念を思い浮かべることはないためである。つまり、ヒュームがここで述べている交際相手の快を前提にする必要はないのである。我々は、好意を抱いた相手の魅力によって著しい快を感じることができる。愛情の源泉としてはそれで十分であろう。ただし、ヒュームの主張する理由によって愛情が生じる場合が無いわけではない。同性の友人が交際相手と幸せな日々を過ごしている様子を見て、友人を羨ましく思うと同時に、その交際相手が非常に魅力的に見えるという経験は、誰しも多少の心当たりがあるのではなかろうか。このような場合には、共感を愛情の源泉として位置づけることができなくもない。

このように、自然的徳は共感の作用によって様々な影響を受けている。ただ、我々の行為について扱う本論文においては、もう一方の徳、すなわち人為的徳の考察の方がより重要になるといえよう。よって、ここから先は人為的徳の考察へと移行する。

 

3 共感と正義

人為的徳に対する共感の作用を論じるに当たって、ここでもう一つ、前章から引き継いだ課題について考えておく必要がある。善悪の判断基準を個人の快・不快に委ねる時、その判断は極めて利己的なものになるのではないか、という危惧についてである。道徳的行為については、既に共感を用いてまとめた通り、自愛との両立が可能であるが、ここで問われるのは道徳的な判断についてである。ただし、この問題についても、回答のための鍵となるのは共感の作用である。というのも、ヒュームが共感を「道徳的区別の主要源泉」(245頁)と位置付けているためである。

この問に答えるには、前述したような我々の善悪の判断が正義・不正義と正しく結びつくことを示せばよい。何故なら、正義は公共善への傾向を持ち、我々が共通に順守すべき規則に繋がるものであるためである。したがって、個人の情念による判断であっても、正義と徳、不正義と悪徳を適切に結びつけることができれば、それは道徳的判断として妥当なものと呼べるのである。 それにはまず正義についてまとめておかなければならない。ヒュームは正義について「人性の自然的動機から、すなわち人性に自然に存して我々を行動へ駆り立てる情念から、生ずるものでない」(54頁)と断言している。つまり、正義は自然的な徳ではなく、人間が生み出した人為的な徳なのである。

では何故、正義は生み出されたのか。ヒュームはその原因として以下の二点を挙げる。

一つは、我々の持つ欲求に比して、この世界に存在する財物が十分に満ち足りていないことにある。ヒュームは、詩人の語る‘黄金時代’を例に挙げて、このことを説明している。それによると、黄金時代とは我々が望む財物が自然の内に無限に存在する、正に理想郷と呼ぶべき楽園である。ヒュームは黄金時代に住む人間の性質を以下のように推察する。「貪欲・野心・残忍・利己心、それらは未だかつて聞いたことがなかった。温情的な情念・憐憫・共感、それらだけが、そのころの人間の知っていた心の動きであった。私のものと貴君のものとの区別さえ、当時の幸福な人種からは駆逐され、それと共に、所有と責務の念そのものや正義と不正義の念そのものも取去られていたのである。」 (68~69頁)。無論、ヒューム自身も述べているように、このような世界が現実に存在することはあり得ない。この記述で注目すべきは、このような世界においては正義・不正義の念さえも我々の内に生じ得ない、という点であろう。つまり、正義は、この世界がある意味不条理なものであるため、我々がそこで生きてゆくために人為的に生み出されたものといえるのである。財物に限りがあるために、我々は自己が所持するものを安定して確保することを望み、そこに互いの所有を安定させるための規定として正義の規則が存在するのである。

もう一つの要因は、我々の情念が万人に対して優しい顧慮を持つわけではないという点である。これについては既にまとめたことであるため、ここで改めて列挙する必要はないであろう。

もしこの世界に存在するあらゆる物が我々の欲求を満たすほどに満ち足りていたなら、そして我々が近しい人達に抱く愛情を全ての他者に等しく抱くことができたなら、この世界に正義の概念が生じる必要はなかった、というのがヒュームの見解である。このように、正義は不完全な世界で不完全な情念を持った我々が生きる上で必要なものとして創造されたといってよいであろう。

こうして、正義が人為的徳であることが示されたわけであるが、その正義・不正義と善悪の判断とが結びつかなければ、本稿の冒頭の問への答えとはならない。ヒュームによれば、これらを結びつけるのは共感の役割である。その理由の一つは、我々が他人の不正義によって被る不利益に対して非常に敏感であるという点にある。そして、その影響範囲は「不正義が我々より非常に遠くて、我々の利害に少しも響かないときすら、不正義はやはり我々を不愉快にする」 (76頁)という記述からも読み取れる通り非常に広い。そしてこれは、我々が、不正義を犯した者のせいで被害を受けた人物に対して共感し易いことに起因するというのである。ところで、前述したように、行為の善悪を道徳的に判断する場合の基準はそこに快を感じるか,不快を感じるかという点である。そのため、不快の共感を招いたこの不正義は悪徳と判断でき、道徳的に悪であることがいえるのである。このことから、ヒュームは「共感によって他人の不快を感じることが、正義と不正義とに道徳的善悪の感の随伴する理由である」(76頁)と結論付けている。

一方、正義の究極目的は社会全体の幸福である。しかし、これが自身や近しい人間と直接的には関わりのないものである場合も多くある。そんな場合、そこから快を感じて善と見なす際、そこにはやはり共感が作用することをヒュームは主張する。「正義が称讃される理由は確かに、公共善への傾向を有するという理由の他にはない」(245頁)と認めるヒュームも、「公共善は、共感がそれへの関心を我々に起させないかぎり、我々にとって無関係なことなのである」 (245頁)と述べている。つまり、前章でまとめ、自然的徳の説明の際にも述べた通り、公共の善は共感を得ることによって初めて、我々に有徳なものと見なされる。そして、それを目的とする正義もまた有徳なものとされ、道徳的に善であると判断できるのである。

以上のように、自己の情念に快を与えるものを善、不快を齎すものを悪とする我々の判断は、それぞれ正義と不正義にしっかりと結びつくものであるといえる。前述のように正義は社会全体の幸福を目指すものであるため、我々の下す善悪の判断が、他者や社会に仇なすような身勝手な判断に直結するという危惧は、これで取り去ることができるといえよう。

 

4 社会形成と黙約(CONVENTION)

正義の規則について更に若干の考察を加えたい。そもそも、何故我々は公共 の利益を目指す正義の規則に共感を抱くのであろうか。

この問に答えるには、人為的徳である正義がいかにして樹立されるかを詳し く見ていく必要がある。そしてその場合、大前提として、ヒュームが‘社会’を 非常に重要なものと位置付けていたことを述べなければならない。この点につ いてヒュームの見解をまとめる上で避けて通れないのが、‘黙約(convention)’に ついての考察である。ここでは、我々と社会との関わりについて、黙約の果た す役割を中心にまとめることとする。

さて、我々が他者との関わりに共感の作用を必要とすること、更に、その共 感でさえ万人に対して等しく働くものでないことは、既に述べてきた通りであ る。しかし、その一方で我々は、他者と繋がって社会を作り、そこに所属する ことの重要性を知っている。また、住み易い社会の構築、ならびにその円滑な 運営のためには、各個人がそれぞれに自己の情念をある程度制御し、周囲に適 応しなければならないことも知っているのである。

中でも特に制御しなければならない情念としてヒュームが挙げているのが、 財物の所有に関する情念である。これは、我々が自分または近しい人間のため にあらゆる財物を欲するという情念である。この情念を除くあらゆる情念につ いて、ヒュームは「容易に抑制されるか、またはこれに耽ってもさほど有害な 帰結はないか、そのいずれかなのである」(65頁)と述べ、さほど問題にはし ていない。しかし、所有への情念は誰しもが抱き得るものであり、それでいて そのままにしておけば社会の調和を根本から乱す原因となり得るものであるた め、ヒュームもこの情念に関してだけは十分な注意が必要であるという立場を とっている。ヒュームの見解では、この情念の抑制は全人類共通の難題であり、 「この情念を規制し抑制するさい遭遇する困難の大小に応じて、社会を樹立する困難が大きくも小さくもなる、と思うべきである」(65~66頁)と主張するほ どにその位置づけは高い。

では、我々はいかにしてこれを制御しているのか。ここで必要となるのが正 義の念と黙約である。所有への情念を制御し各人の所持を安定させるためには、 「社会の全成員が結ぶ黙約によって上述のような不安定な物財の所持に安定性 を賦与し、各人が幸運と勤勉とによって獲得できたものを平和に享受させてお く」(62頁)という方法以外にはないとヒュームは主張する。この黙約は非常 に重要で、ヒュームは「この規則を確定し遵守する合意が得られたのちは、社 会の完全な調和と和合とを得るため為すべきことは、殆ど或は全く残っていな い」(65頁)とまで断言する。

ここで述べられる黙約とは「共通利害の一般的な感」( 63頁)のことである と説明されている。我々はこの感を互いに表示し合い、各人の行為を規制しているというのである。まず、我々は自分が他者に対してある行動を起こせば、 その人物もまた自分に対して同じ行動を起こすであろう、という前提を持つ。 所有への情念についていえば、自分が他者の所有権を侵害すれば、忽ち自分の 所有物も他者によって略奪される危険性が生じると察するのである。このこと を前提に置けば、他者の所有物に手を出さないことが結果的に自分の所有物を 守ることに繋がると判断することになる。つまり、他者の利を侵害しないこと こそが、結果的に自己の利に繋がると悟るのである。ヒュームは「利害のこの 共通感が相互に表示されて、私にも他人にもよく判ると、それに適当した決意 と行いとが産まれる」(63頁)と説明している。つまり、互いの利害感に共感 し合うことができれば、我々は自ずとそれに見合った行動をするようになるの である。これが「黙約( convention)」と呼ばれるのである。

また、黙約は、その成立に明確な約定を必要としない。ヒュームの挙げる例 によれば、二人の人間が小舟を漕ぐ時、彼らの間に「舵を動かす」という約定 が取り交わされることはないが、それでも彼らの合意によって小舟は動く。こ れは、自分が舵を取れば相手もまた同じように舵を取るであろうという想定の 下に生じる黙約によるものなのである。

このように、我々は数々の黙約を生み出し、己の利己心とそこから生じる情 念が外界と関わる中で発生する不都合を救済しようとする。そして、これらの 黙約は、正義の規則の樹立へと結びつく。ヒューム自身、正義について「萬人 に共通であると想定される・他人も似かよったおこないを営む筈であると期待 して一つ一つの単独なおこないを営むときの・利害感」(74頁)である黙約に よって樹立されると明言している。

ただし、その際には前提となるポイントがいくつかある。まず、前述の通 り、自らの行動が他者と関連し合っているということ。次に、正義の規則に従 うことこそが結果的に自らの利に繋がるということである。ある行為を単独な ものとして見れば私的な利害に反する場合もあるが、それでも正義の規則に従 うことは社会全体にとってのみならず個人にとっても結局は有用なことなので ある。これは、社会に所属することが自らにとっても有用であるという考えに 起因する。ヒュームは、正義が無くなることによって社会が崩壊した状態につ いて「およそ社会のなかで想定され得るかぎりの最悪な状況より無限に悪い・ 未開で孤独な・状態」(74頁)と表現している。このような状態の世界に身を 置くことを想えば、安定した社会の維持のために自己の情念を制御することが、 自身の利につながると気づくであろうというわけである。そして他者も自分と 同じようなこれらの意図によってその黙約に従うであろうということも察する のである。

このような前提から黙約は生み出される。そして、それらの黙約によって樹 立された正義の規則は、日々の生活や教育によって我々一人一人の内にしっか りと根差したものとなっていく。つまり、我々は正義の規則に従う際の利益と、 逆らう際の不利益を、教育によって学び、経験によって実感していく。それにより、正義は称賛され、今日の我々にとって極めて有徳なものとして共感されるのである。

 

第3章 現代社会における共感

1 コミュニティの多様化と共感

前章までで、『人性論』においてヒュームが提示した共感の作用に関して記述してきたが、これらのまとめは本論文の冒頭に挙げた「我々は何に基づいて道徳的に行為するのか」という問に答えるためのものである。しかし、そのためには、ここでもう一つ考察しておくべき点がある。

それは、ヒュームの述べる共感の作用が現代の我々にも当てはまるものなのか、という点である。本論文で扱っている『人性論』の原本であるA Treatise of Human Natureの初版が発行されたのは1739年であり、2012年現在よりおよそ270年前の事である。当然、 18世紀と現代とでは、世界の状況が大きく異なる。もしも時代の移ろいによって、ヒュームの述べる共感の作用が現代を生きる我々に当てはまらないものになっていたとすれば、それを本論文全体の問への答えとして、すなわち我々の行為の要因として、位置づけることは不適切になってしまう。したがって、ここで前章まででまとめてきたヒュームの思想が、現代においても我々に妥当し得ることを示しておく必要がある。

そのためには、18世紀と現代とを比較して、現代社会特有の状況を挙げ、その状況下で共感がどのように作用するかを検討するという方法が有効である。ヒュームがA Treatise of Human Natureを執筆するに当たって想定し得なかった状況においても、これまでまとめてきた共感と行為との関係が瓦解しないことを証明できれば、上記の危惧は取り去られよう。

18世紀から現代へ至る中での最も顕著な変化は、各種技術の大幅な進歩であろう。その中でも特に共感の作用と関わりが強いと思われるものとして、コミュニケーションツールの発達、とりわけインターネットの普及を挙げたい。現代はインターネットを介して、誰でも気軽に多くの人々と関われる時代である。メールによるコミュニケーションをはじめ、WEB上のブログで他人の日記を読んでそこにコメントを書き込んだり、各種ソーシャルネットワークを用いた交流を行ったり、共にゲームに興じたりと、その活用方法は多種多様である。しかも、これらのことを世界各国の人々を相手に行えるのである。正に、ヒュームの生きた時代からは想像できないほどの変化といえよう。

これらの技術は、その発達と共に、人と人とのコミュニケーションに多様な選択肢を生み出してきた。そして、このことは我々の共感の作用にもある変化をもたらしたといえる。それは、共感の多様化である。より正確に述べれば、我々が共感を抱き得る人物が、18世紀よりも多様化してきているのである。

このことは、前述したような技術の発達によって、我々のコミュニティが多様化したことを原因としている。近年頻繁に取りざたされている「インターネット上で顔も知らない他人と親密なコミュニティを作り、現実の社会における繋がりが希薄になってきている」という指摘等は、その変化を象徴する事例といえよう。コミュニティ作りの新たな可能性がもたらされたということは、どのコミュニティに属するか、あるいは、どのコミュニティを重視するかという選択肢が、各人に与えられることを意味している。それまで主流であったコミュニティが近年軽視されるようになったという印象を受けるのは、新たな選択肢を得ることで人々の選択が分散したことが原因であると思われる。こうして我々は、時代と共に多様化してきた。もちろんインターネットへの依存度等は人によって様々であるが、それでもネット上でのコミュニティ作りという選択肢が我々に加わっているのは事実なのである。

さて、前章でも引用した部分でヒュームは「私がイタリアにいれば、イタリア在住のイギリス人は友である。シナにいれば、シナ在住のヨーロッパ人は友である。おそらく、月世界で人間に会ったとしたら、人間というだけで愛情を感じるだろう。」(51頁)と述べている。共通点がある人間には共感し易いという趣旨の文章であるが、それではインターネット上で知り合った人間をヒュームは「友」と呼ぶだろうか。言い換えれば、インターネット上のみでのコミュニティにおいて、共感は作用し得るのであろうか。

これに関しては、十分にあり得ることであるというのが私の見解である。共感は、相手の言動や相手の置かれている状況からその人物の情念を読み取ることによって自己の情念が影響を受けるという作用であり、相手が自分と近しい人物である場合や自分との共通点を見出せた場合に、より強く働く。インターネット上での交流は共通の趣味趣向を原因として始まる場合が多く、この時点で自分と相手の共通点を強く感じることができているといえる。文章に写真等を組み合わせることで、自分の状況や気持ちが相手に伝わり易くなっており、互いに共感し合う要因となり得ることも見逃せない。

加えて述べれば、コミュニティの多様化は、我々にとっての‘近しい人物’の定義の多様化にも繋がっていると考えられる。「人々の寛仁が甚だ制限されていて、友人や家族以上に及ぶことは殆どなく、いかなる場合にも母国を越えることは殆どない」(224頁)という記述の通り、コミュニケーションの手段が限られていた18世紀当時、近しい人物とは必然的にある程度直接のふれあいを経験した人物ということになっていたはずである。家族はもちろんのこと、毎日顔を合わす友人であったり、短くとも濃密な時間を共有した人物であったりと、個人によって様々であろうが、それでも強い共感を覚える人物は、少なからず自分と直接会って関わった人物の場合がほとんどであったろう。しかし、これも前述のようにコミュニケーションの選択肢が少なかったためであり、現代では近しい人物をインターネット上でのコミュニティの中から見つけるという選択肢も存在する。これらの点から、インターネット上だけのコミュニティ内においても、我々は相手への共感を抱き得るといえよう。

ただし、この場合の共感が実際に道徳的行為に繋がり得るかについては判断材料が少なく、現時点で結論を述べるのは難しい。その原因としては、ネット上のみでのコミュニティにおいて相手のためにできる行為が限られているという点が挙げられる。インターネットは自分が発信した情報を不特定多数の人々に閲覧される可能性があるという性質を持つため、利用者は個人情報の扱いに特に注意することになる。そのため、インターネットの普及率に比してネット上のみの付き合いの人間に本当に個人的で深刻な悩みを相談する状況はさほど多くなく、それに伴って必然的にネット上で他者のためのみに行為する機会は少なくなっていると考えられる。ネット上で利用者が疑問を解決し合うナレッジコミュニティは一見すれば回答者が質問者のために行為する場のようにも見えるが、これに関してもほとんどの場合が回答者に何らかの得点が与えられるシステムになっているため、完全に無償の行為とは位置づけ難い。しかしながら、たとえば怪我をしたことをブログに書いた人物にたいして見舞いのコメントを書き込む等、他者のための行為と呼べるものが確かに存在していることもまた事実である。

以上のように、たとえその方法が多様化しても人と人とのコミュニケーションにおいて共感の作用が働くという点は、18世紀でも現代でも変わらない。普段直接関わる人々の中から自分と馬が合う人物を見つけていたヒュームの時代に対して、現代は自分と趣味趣向の合う人物を集めてそこから特に仲の良い友人を作るという、別の選択肢が加わった。新たな選択肢においても、その手段に即した形で共感が作用しているということは、どんな方法であれ我々が他者と関わる限り、そこには共感の作用が欠かせないということを示しているといえるのである。

 

2 映像と共感

18世紀と現代との比較において、共感の作用と深い関わりを持つ変化をもう一つ挙げておきたい。それは映像技術の進歩である。我々は日々の生活の中で、様々な映像を目にしている。映像は我々の感情に働きかける性質を持っているといえる。そればかりか、時として映像は、我々を他者のための道徳的行為へと駆り立てるほどに強い共感を生じさせる原因ともなり得ると考えられるのである。その理由をここで論じておくこととする。

まず、映像が我々の感情に及ぼす影響について詳しく述べておく必要がある。ある映像を見ることによって心を動かされたという経験は、誰しもが多かれ少なかれ思い当たるところがあろう。映像はそれを見る我々の感情に何らかの影響を及ぼしているのである。このことは、映像を製作し発信する人々の意図を考えればより分かり易い。テレビで流れるコマーシャルメッセージや通信販売の番組では視聴者の購買意欲を刺激するような映像を工夫するし、ドラマでは視聴者がストーリーに引き込まれ登場人物に感情移入できるような映像を届けようとする。映画の場合も、コメディ物なら笑いを、ホラーなら恐怖を、純愛物なら感動を、観客に与えることを目指して作られる。つまり、映像の作り手や送り手は、映像を用いて我々の感情に訴えかけることを目標としているのである。それは、映像が我々の感情に作用する性質を持っているという前提によるものに他ならない。この性質は、物事を正確に分かり易く伝える目的で用いられる文字情報には見られない、映像特有の性質である。

それでは、他者のための行為の要因となるほどに強い共感を我々に抱かせる映像とはどのようなものなのか。ドラマ等のフィクションで正義感あふれる主人公に共感したとしてもそれは一時的な感情移入が限界であろうし、バラエティ番組等はそもそも他者のための行為を助長するような共感を喚起する意図で作られていない場合がほとんどであるといってよい。強い共感を我々に引き起こさせるのは、本人の映像を織り交ぜたノンフィクションの映像、いわゆるドキュメンタリー映像であると考えられる。というのも、我々が他者のために行為するには、現在進行で困っている人物がいることを知り、なお且つその人物の気持ちに強く共感することが必要となるためである。ドキュメンタリー映像はこの条件に当てはまっているといえる。ノンフィクションの映像が展開されることによって現実に起きている問題としてその内容を意識することができ、困難を抱えている本人やその関係者が実際に映像を通して語ることで、リアリティのある訴えとして、見る人の情念に働きかけることになるのである。視聴者に募金等の様々な協力を呼び掛けるテレビ番組では、こうしたドキュメンタリー映像が流される場合が多くあるが、この場合も前述したようにその方法が効果的であるという前提があるためといえよう。

映像が我々の行為に大きく寄与した事例として、東日本大震災が挙げられる。 2011年3月11日に発生したこの震災はあまりにも甚大な被害をもたらしたが、その一方で発生以降大勢のボランティアが国内外から現地で復興支援を行い、多くの義援金や救援物資が届けられる等、人と人との繋がりの温かさを感じることにもなった。では、人々のこうした行為は何によって生じたのか。やはり映像の果たした役割が大きかったと思われるのである。もちろんこの震災は、その規模をはじめ死傷者や避難者の数も国内において過去最大という未曾有の大災害であり、多くの支援が集まるのは自然な流れであったといえるのかもしれない。しかしながら、もしもそれらのデータを数字として示されただけであったなら、あるいは震災の報道が文書による説明だけであったなら、はたしてこれほどの支援が集まったであろうか。残念ながらそこまでの想像力と行動力は一般的な人間には期待できないといわざるをえない。国内においてさえ、西日本と東日本とで震災に対する気持ちの温度差があるといわれている。おそらくこれは事実であろう。被災地から遠くなるにつれて震災の影響も弱くなり、それに比例していわゆる当事者意識といったものも薄らいでしまうというのは、ある意味仕方のないことといわざるを得ない。私自身、震災当時広島にいたため、同じ日本で大災害が起きているという実感が湧き難かったことを覚えている。

しかし、そんな私が、そしておそらく当時多くの人々が同じように、テレビのニュースを見て一気に現実を突きつけられたのである。大きく揺らぐビル、津波によって流される船や自動車、瓦礫と化した街並み、それらの映像が震災による被害の甚大さをまざまざと見せつける。自分がその場にいたなら何を感じ何をしたであろうか。実際にこれを経験した人たちの恐怖はいかばかりであったろうか。そのような思いを巡らせる。すると続いて、被災した人々の現在の様子が映し出されるのである。余震の恐怖、復興の目途すら立たないことへの不安、慣れない避難所生活での心労、そして身近な人を失った悲しみ、そうした感情が被災した人たちの言葉や表情を通して痛いほどに伝わってくる。彼らの感情は、変わり果てた街の映像とも相まって、我々の情念に働きかけ、強い共感を生むのである。ヒュームは「いかなる人間の幸不幸であれ、いや実を言えば、いかなる可感的生物の幸不幸であれ、我々の身辺に近くて且つ生気に富んで表されれば、或る程度まで我々の心を動かさずにはいない。しかし、これは単に共感から生ずるのであって、(中略)普遍的情愛の証拠ではない。」(50頁)という見解を示している。身辺に近いことが条件の一つとされているのは、ヒュームの生きた時代では当然のことであろう。情報伝達の手段が口頭か文字媒体しか存在しなかった18世紀においては、自らの身辺に近い人々の感情でなければ生気に飛んだ現れ方をしなかったと思われるためである。しかし、現代では映像を用いることによって、身辺から遠い人物に対しても前述したようなリアリティのある感情を感じ取ることができる。これは、ヒュームの述べるところの生気に飛んだ現れ方に位置付けることができよう。したがって、ヒュームの見解に則るならば、映像によって我々の情念が影響を受けるのは、共感の作用によるものといえるのである。

前章にまとめた通り、強い共感は我々を他者のための行為へと駆り立てることができる。ボランティア活動や募金を行う理由は人それぞれに異なるものがあろう。使命感によるものと答える人もいれば、周囲の風潮に流されたためと答える人や、善い行いをしている自分に知らず知らずに陶酔していた人もいるかもしれない。しかし、その根底にもっと単純で強い感情があったからこそ、震災に際して多くの支援が集まったのではなかろうか。つまり、地震や津波への恐怖を心の底から感じ、被災者のことを心の底から心配したことで、自分も何かをしようとしたというのが、支援を行った人々に共通する動機であったはずである。それは被災者の思いに強く共感したためである。そして、その際、被災地から遠く離れた我々や海外の人々にまでその共感を喚起させたのは、リアルな映像に他ならない。

以上のことから、映像は我々に他者への共感を、それも時として実際の行為に結びつくほどに強い共感を、引き起こす性質を持っていることがいえるのである。本章でまとめた二つの変化は、共感の作用にそれぞれ影響を与え、新たな可能性を生み出している。しかし、これらの変化はあくまで共感の及ぶ範囲を拡大することに繋がっているのみであり、他者の情念を読み取ることで自己の情念が動かされるという共感の性質そのものを変えるものではない。したがって、前章まででまとめたヒュームの主張は、現代社会においても十分に妥当し得るものといえるのである。

 

おわりに

最後に、これまでまとめてきたヒュームの思想を元に、本論文の冒頭で立てた問に立ち戻っておかねばならない。

それにはまず、私が本論文の作成に当たって『人性論』をテキストとした理由を述べておく必要がある。私がデイヴィッド・ヒュームの思想を用いたのは、彼の思想が人間味のある等身大の倫理学であると感じたからである。ヒュームは、我々の根本にある自愛について、その危険性を指摘することはあっても、決して排除しようとはしなかった。一見すれば、ヒューム自身が否定した普遍的人類愛の方が、道徳的によいもののように思われるにも関わらずである。より正しく、よりよく生きるためには何をすべきかを論じるのが倫理学であるとするならば、この場合ヒュームには、「自愛を克服して普遍的人類愛の境地を目指すにはどうすべきか」という議論を展開するという選択肢もあったはずである。しかし、ヒュームはあくまで自愛を我々と切り離せないものとして位置づけた。自愛は人間の性質の一つであり、そもそも逃れようとすべきものでないと考えたのであろう。そして、自愛をもちながら他者のために行為できる要因として、共感の作用を提示したのである。

私は、この考え方に引かれた。人間について論じる際、人間の持つ不完全性をどのように扱うべきかについては見解の分かれるところであろう。私は、人間の不完全な部分をそのまま受け止めるところから倫理学の議論が始まると考えている。不完全性を理論上から排除して観念的な議論に終始する考え方や、不完全性を正すべきものとして位置づけて普遍的なもののみに価値を見出す考え方等は、我々の実態とかけ離れてしまう場合が多々あるように思われる。不完全な存在の人間が、不完全なままでも道徳的に行為できることを示したい。清廉潔白な生き方をしようと必要以上に意識せずとも、他者のために行為できることを示したい。そのように考えた私に、ヒュームの思想は魅力的に映ったのである。

このようなヒュームの思想から見出した、本論文の冒頭の問に対する私なりの答えを、ここに示しておきたい。我々人間は何によって道徳的に行為するのか。その答えは、他者への強い共感である。ヒュームの主張する共感の作用こそが、我々の道徳的行為の源泉であるというのが、本論文を書くなかで見出した答えである。

前述の通り、我々人間はとかく自愛に満ちた存在である。快楽を求めて苦痛を避け、見知らぬ他人の利よりも自己自身や近しい人物の利を優先する、ある意味利己的な存在といえる。しかしその反面、我々は他者を思いやり、他者のために行為することができる。それは、我々が他者に共感できるためなのである。共感によって、他者の快は自己の快を喚起し、他者の不快は自己の不快を助長する。共感によって他者の不快を感じ取った時、我々の情念はその人物のために何かをしたいと望むことができる。情念は我々の行為に影響を与えるものであるため、我々は他者のために行為し得るのである。

更に、第2章3でまとめた通り、共感は正義と徳、不正義と悪徳を、それぞれ結びつける。社会全体の幸福を最大の目標とする正義の規則を徳として、すなわち我々に快を与えるものとして位置づけるのは共感の役割なのである。これにより、我々は時に自らの利に反する正義の規則を、有徳なものとして遵守するようになる。このことは、我々にとって非常に有用且つ必須な、社会の安定にも繋がるのである。

また、第3章においてまとめたように、各種技術の進歩や我々のコミュニティの多様化に伴って、共感の作用自体も多様化してきている。このことから、共感は時代の流れに対応した形で作用し得ると考えられ、今後我々の社会が更なる変化を続ければ、我々の抱く共感の幅も広がる可能性が高いと思われる。

つまり、共感は我々を、他者のための行為や社会の調和に繋がる行為へと向かわせる作用であり、時代が変わっても色あせることなく我々が抱き続けるものである。したがって、共感は正に我々の道徳的行為の源であるといえよう。

私は人間が好きである。時に身勝手で、時に優しい、不完全な人間が大好きである。人間が不完全ながらも他者と繋がろうとする時、そこには共感が作用する。他者への共感は、本来自愛に満ちた身勝手な人間を道徳的な行為へと導く。すなわち、自愛と道徳の両立を可能にするのである。この両立は、人間が自らの不完全性を自覚した上でそれとどのように付き合ってゆくべきかを示しているといえよう。人間が他者と繋がって生きている限り、そして他者に共感することができている限り、道徳的行為は無理なく生じることになる。我々が他者に共感しつつ、己の情念に従ってありのままに行為する中で、道徳的行為が生まれるというわけである。このように、我々の感情と行為とは決して切り離せないものである。そのため、我々の持つ情念とそれに作用する共感についての議論を深めることが、様々な場面における倫理的諸問題を実践的な視点から検討する上で、大きな意味を持つこととなろう。私はそう確信するのである。

凡例

  1. 本論文における引用のほぼ全ては、『人性論(四)』(デイヴィッド・ヒューム著、大槻春彦訳、岩波文庫)からのものである。よって本論文中、同書からの引用部分についてはその頁数のみを記すものとする。
  2. ①と同様の理由により、本論文内における『人性論』という記述は、それ単体で用いられる限り、同書を示すものとする。
  3. 同書では常用漢字に含まれない難解な漢字や、通常用いない漢字が多く使われているため、本論文における引用の際には、一般的な漢字や平仮名に適宜変更している。
  4. 同書における「理知」「情緒」「目睹」という訳語について、原文の意図と読む際の分かり易さを考慮し、それぞれ「理性」「情念」「目撃」と書き換えた箇所がある。
  5. ④と同様の理由により、『人性論(二)』(デイヴィッド・ヒューム著、大槻春彦訳、岩波文庫)からの引用においても、「理知」を「理性」と書き換えている。

使用文献

第一次文献

デイヴィッド・ヒューム
『人性論(四)第三篇道徳について』大槻晴彦訳、岩波文庫、1948年-1952年

第二次文献

デイヴィッド・ヒューム
『人性論(三)第二篇情緒に就いて』大槻晴彦訳、岩波文庫、1948年-1952年久保田 顕二
「ヒュームの共感概念について」『思想 2011年12月号』、岩波書店、260頁‐280頁

1)デイヴィッド・ヒューム、『人性論(三)第二篇情緒に就いて』大槻晴彦訳、岩波文庫、1948年-1952年、205頁

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