義村一仁追悼特集

義村一仁君追悼特集に寄せて

2018.09.03

追記(ランダムですが)

平成24年12月1日、サンピーチ岡山で講演をした。演題は「わたしのキャンパスライフ」。法律家、教師等およそ50人の人達の前で90分余り。父と母は喫茶ルームで待っていた。心配はしていなかったが講演内容には興味があった。終わった後、尋ねても教えてくれなかった。本人が言わない以上勝手に主催者に聞くわけにはいかなかった。
翌年、講演録が送られてきた。それで初めてわが子の現実を知った部分があり、無性に愛おしく、無性に不憫で、今まで知らなかったことへの後悔の念が沸き上がった。君の性格から弱音(家族に対しての気遣い)を吐くということはなかった。それでも親としてその隠された部分を察知できなかったのは、親の甘えとしか言いようがない。

君は、その講演の直後、(構想としては何年か前からあったと思われるが)それを補完すべく、あるいは具現化の第一歩としてか、『アクセシビリティ岡山モデルの提案書』を一気に書き上げたちょっと書いてみたから見て…」と言って持ってきたのは昨日のごとく鮮明である。
さらに『視覚障害者外出支援システム』をまとめてきた。君の依頼で略図は父が描いた。

現在、自動運転の車が急ピッチで開発され、ハード面ではほぼ完成していると言われている。そのノウハウがあれば、君が考えた支援システムも、どこかの企業が採算度返しで取り組んでくれればさほど難しくないと考えられる。
視覚障がい者だけでなく、超高齢社会の時代では視覚に支障をきたす人も増加してくる。
障がい者・弱者が暮らしやすい社会は健常者にとっても暮らしやすい社会であり、そのシステムは多くの人に恩恵をもたらすことになると確信しています。

2013年10月放送の、『NHKクローズアップ現代』で自動運転車の番組を観た。それより前に、新聞記事の特集で自動運転車のことは知っていたが本当にうれしかった。そして日産自動車が2020年に市販すると発表した時、君の将来に希望を見出した。君も心待ちにしており、時々『あと何年かな』と言っていた。自動運転車と、外出支援システムがあれば自分自身はもとより、多くの人が行動面で健常者と同等となれると考えていた。
(☆論文「視覚障がい者のための外出支援システム」は別掲)

高校時代、君の将来の夢は教師になることであった。自分が歩んできた道を振り返り、こうありたかったがなしえなかったこと、こうあるべき、こうあって欲しいということをかなえるのが教師を目指すきっかけだったことは、親として分かる。
他人を思いやることが出来る心優しい子であったが、自分の意見、考えはしっかり持っており、納得できないことは相手が親であっても、先生であっても一歩も引かない面があった。
教師になるためには大学に行かなければならない。支援体制の整っている大学は案外少ないと言う現実。表面上は多くの大学が掲げているが実態に即していないところも多くある。対象者が現れてから対処するところが多いように思える。
受験に際し、「大学案内 2005障害者版」で全国すべての大学の受け入れ態勢を調べた。
そんな時、読売新聞に東京大学の支援体制に関する記事が出た。
記名記事であったので、父は記者宛に、事情を記した手紙を書いた。直ぐに返事をくれた。それをもとにいくつかの大学を訪問し説明を受けた。望んでいた水準に達していたのは広島大学であった。

高校の通常の進路指導からすれば、広大受験は無謀であったかもしれないが、親子で・家族で独自に頑張った。
君との受験勉強の時間は、本当に密度が濃く、互いの信頼関係は第三者には説明がつかないと思っている。二度と同じことは出来ないと思う。
父は君の能力を信じていたし、人には必ずその人にしかない能力(良さ)があると思っていた。それを見出し、導いていくのが親であり、教師であると思う。君もそんな教師を目指していると話してくれた。途中で君は、教師から研究者の道へ舵をきったが、その方が君らしいと思った。

父は、君をあまり褒めることはなかったかもしれないが、このことだけは何度か言った。「朝日高校(岡山の伝統ある進学校)から東大へ行った人よりも、盲学校から広大へ行った君の方が何倍もすごい」と。君は照れながらも黙って嬉しそうな表情を見せていた。

君はあまりにも早く天国へ行ってしまった。生まれた時から身体はあまり丈夫ではなくよく体調を崩していた。遊び相手は祖父母が多くを担ってくれた。おかげで心優しい子になり、一杯本を読んでもらい知識も広がった。今回、父は日記を読み返した。書いただけで読み返して(活用して)いなかった。院生になって体調を崩した時も、『元気になった君が少し無理をしたのかな』くらいにしか思っていなかった。もっと危機感を持って冷静に考え、その時日記を読み返すことをしていたら違っていたかもしれない。読み返すことすら思いつかなかった。心から君に申し訳ないと思っています。

君は27歳で遠くへ行ってしまったが、君の頑張りからすると、何倍もの年月を過ごしたと思っています。精一杯駆け抜けたのだと思います。わが子ながら敬意を表します。
君は、高校卒業まで、多くの先生、友人、その他大勢の人に支えられました。可愛がられました。そのことは君が一番わかっていました。卒業式での家族に対する言葉、周りの人たちに対する言葉の中にすべてが込められていました。

大学生になり、君の世界は一変しました。驚きと喜び、希望と不安、その他多くのことが初めての経験。何よりも君のハンデをうまく気遣ってくれながら、対等に接してくれた友人、先生方に出会い・囲まれ、大学生活は本当に充実し楽しかったことと思います。家族全員大変嬉しくとても感謝しています。

たくさんの思いは父にもありますが、その一つは、研究者を目指して果たせなかった君が、院生になって、学長名で『広島大学アクセシビリティセンター TA』の辞令をもらったことです。後からのこじつけですが、その時に夢の一端をかなえたのかなと思っています。

また、君がいなくなった後の、先生方、先輩・同級生・後輩の皆さんのご厚意には家族みんな心から感謝していますが、君が一番わかっていると思います。感謝の気持ちしかありません。


(広島大学アクセシビリティセンターのティーチング・アシスタントへの任命証)


(広島大学アクセシビリティ・リーダー認定授与式 学長と)

義村一仁追悼特集