義村一仁追悼特集

修士論文の一部 ーヒュームの思想に見る感情と行為の関係

2018.09.03

義 村 一 仁
倫理学専攻博士課程前期1年 M121112

※文中で引用するヒュームの著作について、以下のように略記する。

  • A Treatise of Human Nature → THN  (数字は、篇・部・節・段落の順。)
  • An Enquiry Concerning the Principles of Morals → EPM)  (数字は、部・節・段落の順。)

はじめに

 我々人間は、日常生活において多種多様な行為を行っている。

 それらの行為は数ある選択肢の中から選びとったものであり、その選択理由も自己自身や近しい人間のためであったり、それが道義上正しいからであったりと様々である。ただし、いずれの理由にせよ、我々は行為する時点において最も望ましいと感じたことを実行するよう心がけていることは共通しているといえよう。

 では、我々に望ましい行為を選択させ、実際に我々をその行為に向かわせているものとは何なのか。それは人間の理性の働きであるとする思想もあれば、我々の持つ感情にその答えを求める考え方もある。本発表では後者の考え方を持つイギリスの思想家デイヴィッド・ヒューム(1711.1776)の思想を参照し、感情が行為を生み出す仕組みについて概略をまとめる。

1 感情と理性

 まず、感情と理性が我々の行為に及ぼす影響について、それぞれの役割を整理する。

Reason is, and ought only to be the slave of the passions, and can never pretend to any other office than to serve and obey them.(THM:2.3.3.4)
(理性は情念の奴隷であり、そうあるべきである。理性は情念に付き従う以外の仕事を決して要求できない)

 この主張はヒュームの思想の中でもよく知られている。情念(passion)は感情の動きであり、この記述からヒュームが理性よりも感情を重要なものとして位置付けていることが分かる。

 物事に対して我々が抱く様々な感情は、その対象へと向かう情念となって突き動かされ、その動きに影響を受けた我々が実際の行為へと踏み切るのである。この作用は、理性のみによって起こり得るものではない。物事に対するあらゆる感情を削り取り、理性の働きによる冷静な推理と分析のみが働く場合を仮定したとき、そのような状況下で我々が何等かの行為を為そうとする理由はないためである。我々は何等かの興味関心があってこそそれに向けて行為するし、逆に何等かの不快感を感じてこそそれを避けるために行為するのである。

 このように、行為そのものを引き起こすのは情念の役割であり、理性が直接的に行為を生み出すことはない。とはいえ、ヒュームは行為に対する理性の関与そのものを完全に否定しているわけではない。情念の対象を的確に見分け、その目的を達成するための道筋を指し示すのは、理性の働きによるのである1)。

 以上のことから、根本的に行為を引き起こす情念と、その情念を適切な方向に導く理性とが協力し合うことによって、我々の行為は成立しているといえるのである。

2 愛情の限界

 我々の行為が自身の抱く感情に大きく影響されるのならば、道徳的な行為を生むのは他者を思いやる愛情であると考えるのが自然な流れであろう。ただし、ヒュームは愛情について、無条件で普遍的な人類愛を我々は持ち合わせないと述べてもいる2)。

 たとえば、ある異性に対して好意を抱くとき、我々にとってその人物が持つ長所への愛情は、同じ人物が持つ同程度の短所に対する嫌悪よりも遥かに強いものとなる。このような感覚を全人類に対して平等に持つことが、普遍的人類愛を持つということであるとヒュームは指摘し、その上で、それは現実的ではないと示している。家族や恋人、友人といった身近な人々に抱く愛情と、自分と直接関わりのない見知らぬ他人に対して抱く愛情とを、全く同量・同質なものと言いきることは、決してできはしないのである。

 このことより、我々が常に全ての人間の幸福のために無条件に行為するのは不可能であるという主張が成り立つ。すなわち、我々は公共の利害のみを考えて行為することができないのである。ヒュームは次のように述べている。

That is a motive too remote and too sublime to affect the generality of mankind, (THN:3.2.1.12)
(それ(公共的利害への顧慮)は大多数の人類に影響を与えるにはあまりに も隔たり過ぎ、あまりにも荘厳過ぎる動機である。)

 公共の利益を目指す行為は、必ずしも個人の利益に直結するとは限らないばかりか、むしろこれに反することも多くある。そのような行為に我々を向かわせる動機として、我々の持つ人類愛(benevolence)はあまりに限定的なものなのである。

3 社会を維持するコンヴェンション

 普遍的な人類愛を持たず、情念を元に行為する我々が、何故他者と関わりあって生きてゆくことが可能なのか。前述の通りヒュームは公共の利害への顧慮は行為の原因とはならないとしているが、その一方で、行為の結果として公共の利害が生まれることに関しては否定しない。そもそも、ヒュームは社会( society)を非常に重要なものと考えている。

And even every individual person must find himself a gainer, on ballancing the account; since, without justice, society must immediately dissolve, and every one must fall into that savage and solitary condition, which is infinitely worse than the worst situation that can possibly be supposed in society.(THN:3.2.2.22)
(そして個々の人物さえ、収支計算をすれば自分は獲得者であると判るに違いない。何故なら、正義がなければ、社会は直ちに瓦解するに相違なく、各人は、およそ社会のなかで想定され得るかぎりの最悪な状況より無限に悪い、未開で孤独な状態へ落ち込むに相違ないためである。)

 他者と繋がって社会を作り、そこに所属することは、たとえ一時的に自らの個人的な利を損なうものであったとしても、結果的に個人にとっても有益なことなのである。そして、住み易い社会の構築、ならびにその円滑な運営のためには、各個人がそれぞれに自己の情念をある程度制御し、周囲に適応しなければならないことを我々は知っている。

 中でも特に制御しなければならない情念としてヒュームが挙げているのが、所有に関する情念である。これは、我々が自分または近しい人間のためにあらゆる財を欲するという情念である。

This avidity alone, of acquiring goods and possessions for ourselves and our nearest friends, is insatiable, perpetual, universal, and directly destructive of society. There scarce is any one, who is not actuated by it; and there is no one, who has not reason to fear from it, when it acts without any restraint, and gives way to its first and most natural movements.(THN:3.2.2.12)
(我々自身や我々に極めて近い友人のために財や所持物を獲得したいという前述の渇望のみが、飽くことを知らず、恒久的かつ普遍的であり、社会を端的に破壊する。この情によって心を湧き立たせられない者は殆どいない。が又、この情が少しも抑制されずに働いて、その最初の最も自然な動きに委ねるとき、これを恐れない理由を持つ者もいない。)

 これ以外の情念について、ヒュームはさほど問題にはしていないが、所有への情念は誰しもが抱き得るものであり、それでいてそのままにしておけば社会の調和を根本から乱す原因となり得るものであるため、ヒュームもこの情念に関してだけは、全人類共通の難題として十分な注意をはらうべきであるという立場をとっている。

 では、我々はいかにしてこれを制御しているのか。これは非常に強い情念であるため、理性によって抑制することは不可能である。我々にできることは、前述したような社会の有用性を踏まえて、自らの情念を規制することで社会の一員として得られる利益の方が眼前の利益よりも大きい、という方向に、情念の向きを修正することしかできない。ヒュームは以下のように述べる。

This can be done after no other manner, than by a convention entered into by all the members of the society to bestow stability on the possession of those external goods, and leave every one in the peaceable enjoyment of what he may acquire by his fortune and industry.(THN:3.2.2.9)
(社会の全成員が結ぶコンヴェンションによって上述のような不安定な物の所持に安定性を賦与し、各人が幸運と勤勉とによって獲得できたものを平和に享受させておく以外に方法はない。)

 コンヴェンション(convention)とは、明確な契約を伴わない暗黙の決め事のことであり、「黙約」と訳されることもある。たとえば、二人の人間が小舟を漕ぐ時、彼らの間に「協力して舵を動かす」という約定が取り交わされることはないが、それでも彼らの合意によって小舟は動く。これは、自分が舵を取れば相手もまた同じように舵を取るであろうという想定の下に生じるコンヴェンションによるものなのである。

 上記の例からも分かるように、コンヴェンションは、共通利害の一般的な感覚(a general sense of common interest)(THN:3.2.2.10)を共有することであると言い換えることもできる。我々はこの感覚を互いに表示し合い、各人の行為を規制している。まず、我々は自分が他者に対してある行動を起こせば、その人物もまた自分に対して同じ行動を起こすであろう、という前提を持つ。所有への情念についていえば、自分が他者の所有権を侵害すれば、忽ち自分の所有物 も他者によって略奪される危険性が生じると察するのである。このことを前提に置けば、他者の所有物に手を出さないことが結果的に自分の所有物を守ることに繋がると判断することになる。つまり、他者の利を侵害しないことこそが、結果的に自己の利に繋がると悟るのである。このような利害に関する共通の感覚が相互に示され、互いがそれを感じ取ることができれば、それに見合った行いが自ずと生じることになり、人々は社会に適応できるのである。

4 正義について

 このようなコンヴェンションによって所有の権利を区別することが定着してゆくと、そこには正義と不正義という概念が生じてくる。他者の所有権を侵害しないということは、我々が守るべき正義の規則となるのである。

 「正義( justice)」という徳は、美しさや快活さなどの自然的な徳(natural virtue)とは異なり、人為的に生み出される徳(artificial virtue)であるとヒュームは述べる。というのも、正義はいかなる状況でも無条件に機能する徳ではないためである。ヒュームは正義の規則が働きうる二つの条件を示している。

 第一の条件は、この世界に存在する財の量に関連している。まず、あらゆる財物が無制限に存在する世界を想定したとして、そこには所有の区別も正義の規制も全く存在しないばかりか、必要とさえされない3)。所有に対する情念は概して対象物の希少性に比例して強く働く。生きる上で欠くことのできない水や空気について、我々が所有権を主張しないのもそのためであるとされている。財物に限りがあるために、我々は自己が所有するものを安定して確保することを望み、そこに互いの所有を安定させるための規定として正義の規則が存在するのである。それとは逆に、世界全体が非常に貧しい状況であった場合を想定しても、正義の規則が働くことはない4)。難破船から生還するために、手近にある様々な物を利用した人が、その物の所有権がないからという理由で批難されることはない。このように、あまりにも困窮し切迫した状況においては、正義の規則に即した行為よりも自己保存のための行為の方が優先されるのである。つまり、我々の持つ欲求に比して、この世界に存在する財物の総量が非常に中途半端であるため、正義の規則は生み出されるのである。

 第二に、我々の持つ愛情の不完全性が挙げられる。仮に、我々が全ての他者に対して平等に深い愛情を抱くことができたなら、正義の規則は必要とされない5)。放っておいても自分にとって有益な行為を他者がしてくれるということを人々が知っている場合、正義の規則によって規定する事項などありはしないのである。しかし、前述した通り我々の愛情は限定的であるため、これは現実にはあり得ない状況である。また、逆に人間が他者に対して一切の愛情を持たず傍若無人にふるまう状況を想定した場合も、そこで優先されるのは自己保存であり、正義の諸規則が重要視されることはないとされる6)。

 これらの二つの観点から、正義は不完全な世界で不完全な情念を持った我々が生きる上で必要なものとして創造された人為的な徳であるといえるのである。

Hence justice derives its usefulness to the public: And hence alone arises its merit and moral obligation.(EPM:3.13)
(それにより正義は公衆にとって有益であることを引き出し、そのことからのみ正義の美点と道徳的責務が生じるのである。)

 この記述からも読み取れるように、正義が生じ、そして我々の行為に関わる規則として機能するのは、偏にそれが我々にとって有益なものであるためなのである。

5 善悪の判断基準

 正義の規則と我々の利益とが結び付いても、我々が正義を重視するのはそれが道徳的に正しいと感じているからである、という考え方は拭いきれない。ただし、ヒューム自身決してそのことを否定しているわけではなく、次のように述べている。

The good of mankind is the only object of all these laws and regulations. (EPM:3.22)

(人類の善が、こうした全ての(正義の)法や規制の、唯一の目的である。)

 正義の規則が目指す最終的な目標は、人間全体、すなわち社会全体の善ということなのである。この主張は、正義の有用性に着目してきたこれまでの主張と矛盾するものではない。というのも、ある物事が有用であるか否かというのは、我々がその善悪を判断する際に重要な基準となるからである。

 ヒュームは、我々がある物事の善悪を判断する基準について、それが我々に快と不快のどちらを与えるかという点である、という見解を示している7)。我々は徳から快を、悪徳から不快を、それぞれ感じ取ることができる。言い換えれば、我々に快を与える性質を持つのは有徳、逆に不快を感じさせるようなものは悪徳であると判断できるというわけである。正義の規則を順守することによって為される社会の安定は、自らにとっての利益という快を生む。したがって、正義が目指すものは道徳的な善に結びつくといえる。そして、善を目指す正義そのものもまた、道徳的に善であるとして我々に尊重されるのである。

 逆に、不正義を悪と判断する理由としては、我々が他人の不正義によって被る不利益に対して非常に敏感であることが挙げられている。その影響範囲は非常に広く、たとえ自らが直接的に不正義の被害を被らない場合であっても、我々は不正義から不快を感じる。

 これは、我々が、不正義を犯した者のせいで被害を受けた人物に対して共感し易いことに起因するというのである。前述の基準に従えば、不快の感情を招いたこの不正義は道徳的に悪であると判断できる。

 このように、道徳的な善悪の判断は、我々の感じる快や不快と密接に関係しているのである。

6 共感の作用

 共感( sympathy)は、感情と行為の関係をまとめる上で非常に重要な要素となる作用である。何故なら、共感はその性質上、自己の利害を度外視した他者のための行為に我々を向かわせる要因となるためである。

 元々、我々は他者の心を正確に理解することはできない。しかし、我々の情念には互いに似通った部分が少なからず存在する。ヒュームはこの前提の下、次のように述べる。

all the affections readily pass from one person to another, and beget correspondent movements in every human creature.(THN:3.3.1.7)
(全ての情念は一人の人物から他の人物へ即座に移り、全ての人間の心に類似した運動を生む。)

 この主張の根拠は、我々が他者の言動に対して無関心でいられないことにある。我々は他者の言動を目にした時、その原因となるものを読み取ろうとする。何故彼はこの行動に至ったのか。彼の情念にどのような変化があったのか。それらを感じ取ろうとするのである。その結果、我々は情念の極めて生気ある観念を形成する。そしてその情念は忽ち自らの情念そのものに還元され、これにより我々は自己の情念と同じように他者の情念を感じ取れるようになる。この一連の作用が共感である。

 逆に、ある感情の原因となり得るものを知覚した時には、我々の情念はその結果として生じるであろう情念へと向かう。ヒュームは具体例として、大がかりな外科手術に立ち会う際の心情を挙げている。準備された手術用具の数々、患者や付添い人のあらゆる不安の表徴、それらは実際に手術が始まる前においてすら、見ている者に憐憫と恐怖の情を喚起する、というのである。これも共感の作用である。

 つまり、我々は他者の情念の原因もしくは結果を感知し、そこから情念そのものを感じ取る。そうして感じ取った情念は、自分自身の情念にも作用し、我々の感情に少なからぬ影響を与える。これが、他者に共感するということである。我々の行動に直接影響を与えるのは情念であるために、他者の情念に共感して自身の情念が影響を受けた際には、当然自身の行為にも影響が生じることになる。つまり、我々が自己の利害に反しても他者のために何かをしたいと感じ、実際にそのように行為する時とは、その人物の情念に強く共感した時に他ならないのである。その際の行為は結果として道徳的行為と位置付けられるかもしれないが、決して人類愛から生じたものではない。ただ自らの情念に正直に従った行為なのである。

 ただし一方で、共感は万人に対して同じように働くものでは決してない、という面も持っている。我々は、相手が自分と近しければ近しいほど、その人物に対して強く共感することができ、逆に関わりの薄い人間には共感し難いのである。

 この場合も、我々はどうしても、自分と近しい人々と、関わりのない他人とを、同列に考えることはできない。大抵の場合、我々にとっては、地球の裏側の人々の困窮よりも家族や友人の些細な悩みの方が心を動かすものなのである。

 また、我々は自分と似た境遇の人物に共感を抱き易いという性質も持っているようである。このことについては、次の文章が端的に説明してくれている。

An Englishman in Italy is a friend: A European in China; and perhaps a man would be beloved as such, were we to meet him in the moon.(THN:3.2.1)
(私がイタリアにいれば、イタリア在住のイギリス人は友である。中国にいれば、中国在住のヨーロッパ人は友である。おそらく、月世界で人間に会ったとしたら、人間というだけで愛情を感じるだろう。)

 この文面からも読み取れるように、たとえ全くの他人であってもその人物に自分との共通点が見つかれば、我々はその人物に対する共感を抱き易くなるのである。

 これらのことから、共感の作用も決して万能ではないことが分かる。しかし、それでも共感が我々を他者のための行為に向かわせる要因であることに変わりはないのである。

まとめ

 以上が、ヒュームの思想における感情と行為の関係である。

1)EPM:3.19参照。
2)THN:3.2.1.13参照。
3)EPM3.2、EPM:3.3参照。
4)EPM:3.8参照。
5)EPM:3.6参照。
6)EPM:3.9参照。
7)THN:3.1.2.3参照。

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